②皇道大本との邂逅 第三次大本事件のさなか

16/03/13
 

  大学卒業後、私は名誉も地位も興味がなく、アルバイトの延長のような仕事についた(一応一部上場の正社員ではあったが仕事の内容はアルバイトと変わらない。)。しかしこれが意外にきつかった。

 ここから約5年は他の人の苦労話と変わらない。

 若者の労働を搾取して経営者が肥え太る。それが当たり前といわんばかりの時代で、上司は平気で部下を罵倒し、つるし上げることもたびたびだった。パワハラが日常茶飯事だった。

 上場ではあっても今でいえば職場は完全なブラックだった。組合はあってもなれ合い。ただ、今考えるとその後経験した組合のない企業よりはましだった。

 まああたりまえなのだがそういう世間の見えない部分を私は知らなかった。

 ブラックの問題はこのころからあったが、訴えるすべがなかった。労基にはできるだけトラブルにならないような言い方をされた。

 延々と続く労働の中で手に職を付けるために専門学校にいって技術を習得してやり直しを試みた。

 しかしここでも徒弟制度を利用したブラック地獄が待ち構えていた。専門職では先行者が後発組を食いつぶす。

 この地獄のような日々に私は青春時代を消耗した。スタートを誤ったといわれればそれまでだが、おそらくどんな企業に勤めても問題ある部署に回されたのかもしれない。そういう経験が必要な時期だったと思っている。

 何故かといえば、真理の探究をしながらも、自分自身の信仰に問題があったからだ。

 無神論とまで言わないまでも不可知論者であり、もし自分に使命があるとすれば大転換が必要であった。

 もうだめだというところまで追い詰められなければ、魂にこびりついた垢ははがれないものなのだ。身魂(みたま)の立て替え立て直しというわけである。

 私が勤めた企業や事業所の多くは他社に吸収合併されて消滅した。その後も私が勤めてこれはだめだと見限った会社はほとんどがつぶれている。そういうところは人がしょっちゅうやめるから募集も多いし入りやすい。だがやはり続かない。

 最初の会社は一部上場だが競争の激しい分野で業界5位くらい、入った頃からどこが生き残るかとささやかれていた。寄り合い所帯的な経営では激しい業界では長く生き残れないと知らなかった。利益をきちんと確保しながらシビアな経営をしているところが生き残った。

 だがそれが働いている職員にとって幸せかどうかはわからない。会社は生き残っても職員の入れ替わりは激しかった。幸せなのは経営者だけというところもある。

 今考えれば入った会社の生き残りは難しいと判断できたかもしれない。一流の会社で底辺に回されるより、三流の会社で頭角を現したほうがよいと考えたのだが、三流の会社は能力的にも人間的にも問題を抱えている人も多く、足の引っ張り合いも尋常ではなく、教育など、どれほど上層部がカリキュラムを組んでも現場はまた違ったルールが支配していた。下克上の世界でゆっくり宗教と人生を考える余裕がない。

 履歴書がどんどん黒くなるのは必ずしも人物のせいだけではない。業界によってはそれが当たり前のところもあるが、転職時、書類上は不利になる。

 犯罪に手を染めなかったのが不幸中の幸いだが、社会の黒い部分はたくさん見てきた。ある程度の柔軟性は必要だがどこまでが境界線なのかはなかなか難しい時もある。

 引き返せないような悪事は断じて避けるべきだろうし、身体を悪くするような仕事は修行といえども避けるべきである。仕事を辞めるのは勇気がいることであり、なんの準備もなければ立場も弱い。反社会的人物が企業を経営していることもある。

 戦略としては逃げ道は必ず確保しておけということである。それがあってこそ一か八かの賭けができる。ドラマのように退路を断つというのはやってはならない。

 もし社で上司に嵌められるようなことがあっても、ただで転ぶことのないよう常に策を練っておかなければならない。

 さもなくば、サラリーマンの社会では後手に回り不本意な結果に陥れられる。家族がある人はなおさらである。

 世間を知らぬ女性や順風漫歩できた人には理解しがたいだろうが、ドラマで展開するような卑劣な事態というものは現実に起こりうる。

 自分の側に正義と徳があると絶対とはいえなきまでも、成功の確率はあがる。最終的にやめることになっても、我か勝てりという気持ちがのこり、相手に後悔をあたえられる。 

 ただ私がこのような不遇な境遇になったのは振り返れば、自分の側にも問題を抱えていたせいなのかもしれない。反省は必要であるが、落ち込む必要はない。

 この地獄のような日々の中で池袋の書店で大本神諭に出会った。

それまでは谷口雅治氏の生命の実相という本で大本の存在は知っていたが、単なる終末預言をした過去の宗教と思い込んでいた。

 初めてその京都なまりの入った神諭を読んだ。

 衝撃であった。

 内容もだが、その文体や言葉の力に揺さぶられた。言葉が私の想像力を揺さぶった。かつてない経験であった。なんといってよいかはわからない、かつてないほど動揺した。すぐさま買いこみ読破し、亀岡の大本の本部へ話を聞きに行った。

 巨人出口王仁三郎という本も買い込み、感銘を受け、そこから大本を研究し始めた。

 

 仏教畑を歩いてきた私にとって、神道系の思想を受け入れることは思いのほか難しかった。世界観がかなり違う。仏教系思想はどちらかといえば抽象的な側面が強い。これに対し神道系は国家観が明確で、現実的である。 

 大本は神道新興宗教に分類されているが、出口王仁三郎に言わせれば太古神道の復興に過ぎない。

 「ぶつではたちゆかんぞよ」と言うお筆さき、神示があるが、これは仏つまり仏教ではだめだという意味と物質の学つまり唯物論的な科学では物事は行き詰るという二重の意味を示している。

 しかし大本は「ぶつではたちゆかんぞよ」といいながらミロクの世などという仏教的な言葉が随所に使われ神仏習合的な側面も見せている。これはどういうことなのか。

 日本は本来神道の国であり、仏教は外来宗教である。この戦いがあったのは物部と蘇我氏の頃であるとは知っていたが自分の中で仏教を根本的に否定したのは初めてで、それまでの人生をやり直すぐらいの衝撃だった。

 大本の文献を読み解いてゆくと大本は官憲に弾圧されたものの、実際のところ天皇制を否定してはいない。

 ところが、当時は第三次大本紛争というのが起こっており、信者が分裂して、天皇制のことなどわからなくなっていた。

 私が会った大本信者には4種類の意見があった。

1、弾圧した官憲を天皇陛下と結び付けて、天皇制の側VS民衆の宗教大本と考えている人

2、信仰と天皇制を切り離して考え、霊界物語は読み、宗教として式典にも出席するが、天皇制についてはあまり考えたことのない人

3、大本の教義は天皇制の真の姿を説くもので、天皇制を支持する人。

4、天皇制についてはあまり声高に語らない、タブーと考えている人。

 大本を外部から評している人の中には1説を取る人も多い。4代目の教主補(教主を補佐する男性)にあたる出口栄二氏が2、の大本の信仰と天皇制に関して、天皇家を特別なものと考えておらず、世界の将来は共和政に近い状態になると主張していた。

 また孫の和明氏がつくったいずとみずの会(のちの愛善苑)は出口王仁三郎の出自について、有栖川宮熾仁落胤説を繰り返し強調し、出口王仁三郎こそが救世主ということを非常に強く打ち出た。出口日出麿という当時存命だが心神喪失状態といわれていた三代目の教主補を軽んじ、スサノオを中心とした独特の教義を確立していった。

 同じ文献を読んでいて、なぜこうも意見が違ってくるのか、とおもった。文献を素直に読んでみれば大本の教えは皇道であり、皇道大本にほかならない。それが時代錯誤であろうと、戦前の天皇制がファシズムといわれようと、出口王仁三郎の思想は我が国の皇道を説いたもので、戦前という時代に迎合して仮の姿をとったものではない。 

 むしろ当時の政府が人為的な国家神道を作り出し、勢いをもってきた大本を天皇に対立するものとして弾圧したのが真相である。

 ところがその話がタブーになって戦後数十年たつと、信者は天皇制と大本との関係性が分からなくなっていた。

 大本で、これに明確に答えられる人と会うことはほとんどいなかった(ただしゼロではなく、当時一人、最近でも冊子上で教団内部に一人見ている。)。あたかもそれは問題の核心ではないとでも言うかのようにこの話題をさけ、言葉を濁す人が多かった。

 しかし私はおおもとが弾圧された原因は第一次も、第二次も皇道についてのであり第三次の原因もこの点の理解が一致していないから起きたと考えている。

 四代目の教主補出口榮二氏は出口王仁三郎自らが探し出した人物でありやはりこの人の母親は有栖川宮熾仁親王落胤であるという。本人は早稲田大学の宗教学の講師をしていた。

 それほどの人が教義を読み間違えることがあるのか。氏の解釈が間違っていることを明らかにするには相当時間がかかった。

 この方は教団存続の期待を背負っていった。しかしこの方の大本解釈は「皇道大本」ではなかった。

 

   

 戦後の吉岡発言を金科玉条にして、戦前の皇道大本の思想や活動を時代のしからしむところとしてすべて否定的に扱ってしまっていたのである。

 戦後は榮氏が思うほど自由ではなかった。GHQによる言論統制は厳しく、神道指令が出ており、皇道について話すことはできなかった。大本も愛善苑として出発した。吉岡発言こそ占領下で天皇制について語ることができない時代の発言として理解すべきである。

 榮二氏は将来の世界像として共和政をイメージしていた。天皇家は特別なものではなく、一つの家族として存続すればいいというような社会主義的思想もっていて、批判されても仕方のないようなことを言っていたのである。

 戦前の皇道大本の完全否定である、

 私はこの方の論文集を購入し、その思想をかなり調べた。榮二氏の解釈で大本を見るとダイナミックな世界宗教である大本が、なんだか一地方の民衆宗教に過ぎないように感じられた。実際榮二氏の出版した本には民衆の宗教という修飾語がついていることが多い。これはまた国家権力に対立した国民の側の宗教というニュアンスが含まれているが、大本はそのような単純なものではない。

 

 二代目教主補出口日出麿氏まではその言動は感動するところが大きかったが、この四代目教主補の思想は腑に落ちなかった。

 四代教主補は四代教主とともに大本の後継者からは外され、大本信徒連合会という組織をつくり独自に活動しながら、地位保全の訴えを起こしていた。教団内で後継者争いが起き、訴訟にまで発展したというのは誠に醜く恥ずかしいお家騒動である。

 出口王仁三郎の孫にあたる出口和明氏は別にいずとみずの会(のちの愛善苑)という団体をつくり、独自の解釈を展開していた。スサノオ出口王仁三郎救世主、皇胤などがこの団体のキーワードである。

 二つの外部団体は大学や出版界にパイプがあり、一般的な書物で第三次大本事件についての情報を流した、大本教団の公式見解とともに錯綜した情報が巷に流れ、「皇道大本」という問題の核心は深く埋もれていった。この3つの団体のいづれもが皇道大本に目を向けていなかった。教団のやり方、後継者や権力争いについての流言が流れ、何が本当かわからなくなった。

 大本が皇道つまり天皇制の真の姿を開示して天皇の世界統治を補佐するという考え方は、先の戦争とのからみや日本の侵略論がからまって、今の時代には危険思想ととらえかねない。そのために今はこれを公言する者はほとんどない。

 しかし統治が強制ではなく、全世界市民の望みであるとなればそれは話は変わってくる。

 統治には覇道と皇道があり覇道による統治は君主が力によって押さえつける統治であるが、皇道の統治はタミがキミを愛し、君と民の意思が神のもとに一致するというものである。、それが神に意思にしたがう神政復古を意味している。この考え方は現代では戦後ファシズムと同じ引き出しに入れられている。戦前の軍閥統制派東条英機らの影響で日本の天皇制がイタリヤやドイツのファシズムをまねたために屈折が生じ、国民の大半が天皇制の存続は望んでいるが天皇制を頂点として国づくりをすることに拒否反応を示しているからである。

 覇道ではない皇道という概念自体が欧米の政治概念にないため、太古日本の政治形態を正しく分析できないのである。

 わずかに中国の徳治というのがこれに近く、無為にして化すという老子の思想は太古政治の片鱗を伝えている。ただし神道の徳治の徳は儒教的な道徳の徳ではなく、神徳を意味し神徳による天皇の統治こそが日本の本来の統治形態である。またプラトンも国家論の中で太古の統治の片鱗を伝えている。神を認めてさえこれだけ分派が生じるのであるから、神を認めなければ皇道など一般の学者に理解できようもない。

 大本の信者でもごく一部はこのことを理解しているだろうが、大本の信者とて、出口王仁三郎を救世主と考える人は多いが、天皇陛下を世界の君主と考える人はおそらく稀だろう。

 ヒトラーの独裁と同じではないのか。。。と同じ引き出しに入れてしまう人がほとんどである。すぐに戦前の軍政を重ねてしまう。

 現代は神なしで、機構で国家を維持してゆこうとしている。それが進んだ方法であると信じ切っている。ところが太古にあってはほとんどの国は神を中心とした王国であり、プラトンの国家論にあっては民主政治は欠点を抱えたレベルの低い形態として記されている。

 プラトンはエジプトの神官から多くのことを学んだという。

 

 日本にあっても神社にそうした伝承が残っていたが、1回目は蘇我の入鹿が太古の蔵書を燃やし、2度目は戦時中に失われ、東京大空襲で多くが消失してしまっている。

 中国では為政者が政権が変わるたびに歴史書を改ざんしているので契丹古伝のようなものが出ても容易には認められない。

 

 現代思想に染まっていると四代教主補栄二氏のような宗教学者でさえ出口王仁三郎がそんな思想を持っていたなどありえないと思ってしまう。文献を読むときに素直に読めず、異なった解釈をするようになる。出口王仁三郎は当時の思想に合わせて説いたのだと。今そんなことを言えば時代錯誤だと。

 王仁三郎の後継者がこれを言い始めたら、戦前から大本で戦ってきた古参の人たちは納得いかないだろう。戦前は皇道大本で出口王仁三郎と結びついてきたのである。中国大陸に作る国を明智光秀の名を冠して明光国にしょうとさえ提言していたのである。

 話は単純である。太古は世界が日本であり、その頂点に天皇がいた。それが天変地異が起こり、世界が分断され、天皇の一族はアジアを追われて極東に追い詰められた。まだ地続きのころだという。

 さらに島国になって日本が国としてはじめて宣言したのは神武天皇の時であったという。ハツクニシラスというのはそのためである。それまではこの地域は国という区画が明確になっていなかったという。

  神武の東征というのは何らかの原因で九州に居を構えていた天皇家復権の活動を起したと解釈できる。

 また神功皇后三韓征伐、豊臣秀吉の大陸進出、西郷隆盛征韓論なども復権運動と解釈したがゆえに、出口王仁三郎は彼らを高く評価している。

 つまり太古史の記録がなければ、天皇家のやったことは武力による他国侵略、征服に他ならない。しかし、他民族に追いやられ、国民が苦しんでいるとすれば、土地の回復運動であり、人民の奪還運動でもあった。またそのきっかけはヤマタノオロチ族の残党が新羅という国を作り、皇室の滅亡をたくらんで謀略をしかけてきたのがきっかけでもある。

 歴史書の多くは大陸から帰化した人間が編纂し、古事記の序文にさえ陰陽思想が混入されている。都合の悪い歴史はカットされるか歪曲されている。

 日本に潜伏していた半島や大陸の間諜が必死で太古史を奪い、抹殺しようとしたのも、歴史が国の屋台骨ともなることを知っていたからだ。

 バックボーンに本来は我が国の統治権が及んでいたがゆえに中国すなわちchinaの語源は支邦しなであり、日本側が「本邦」といわれていたのではないだろうか。これらの記録はほとんど評価されず、偽書として名高い古文書にしか残っていない。

 葦原はアジアのことであり、素戔嗚の尊は一時肉体をもった人物として、統治はアジア全域に及んでいた。しかし、結局はうまく行かず、それが荒ぶる素戔嗚の物語として残っている。

 アジア全体が日本であると理解されていた時代があったとすれば、それを回復しようとする動きが出てもおかしくはないだろう。

 ただその記録が現在ない。かろうじて契丹古伝がその片鱗を伝えているにすぎない。またスサノオが朝鮮に降臨したことも神話として残っているにすぎない。学者は神も認めなければ神話も作り事と見なす。

 今の時代、このことを明確に表に出して議論することはできない。非難されるだけである。

 だが出口王仁三郎が戦前の軍閥の思想と異なったのは、アジアを武力で支配することを望んでいなかったということである。

 五台山で宗教者会議を開き、宗教が和合することで精神的なルネッサンスを興し、精神的に和合しようとしていた。この機運は今も存在し、おおもとの現在の活動の主軸になっている。

 大本であろうと皇道であろうと「支配」を欲しているのではない。

 人類が世界平和を達成するためにはどういう形態がいいかという話の中で、出口王仁三郎は太古の青写真から世界が一つの王でまとまることを預言した。

 それが天皇陛下であるということは戦後のタブーになってしまったが、平和的な形で、世界が望む形で、それが実現することが筆先にも出ている。どれほど時代錯誤であろうと狂気だといわれようと大本と出口王仁三郎の原点はそこにある。

 ただそれを今の時代公言してしまうと袋叩きにあってしまう。それでは団体は立ち行かず、信仰を失うものもあらわれてしまう。

 そうこうしているうちに、本当のことが分からなくなって枝葉末節のことを議論する者が現れてきた。出口王仁三郎落胤であろうとなかろうとどうでもよいことである。それは本人が言っている。確かに出口王仁三郎が仕組みの中で重要な位置をしめており、それに血統が関わっている可能性はある。しかしそれが天皇に取って代わるという意味ではない。

 霊界物語を読んでいくとよく総説の部分に皇道のことがかかれている。

 大本は日本の皇道を解き明かしたものであり、失われた祭祀や伝承、明らかにされていなかった部分を開示したものであり、天皇制と対立する者でもなければ、出口王仁三郎天皇になろうとしたわけではない。

 ところがそれが王仁三郎が天皇になろうとした、あるいはそれに匹敵するもののように誤解されての大弾圧となった。

 そのため、私がいったころは天皇制をあまり快く思っていない信者もいた。

 大本が正しく、天皇が間違っていたという構図がどこかに刷り込まれると、おおもとの文献を読んでいても皇道大本の意味が入ってこない。

 後継者と目された人の中に、ゆがんだ説を取る人特に四代目教主補が左翼的大本解釈をしてしまったがために、第三次大本事件が起きたというのが私の見立てである。

 信者の話を聞くと誰が悪いとの陰口が多かったが、指導者になるべき人が間違った論説を展開していれば、それは古参の人にとっては理解しがたいものがあるだろう。

 それぞれの会の方と議論したことはあったが、それぞれ思い込み蛾はげしく、お家騒動的な内輪もめの様相話が激しくなり、私はこのような団体に近づくことに嫌悪感を覚えた。

 話にならなかった。

 私は真理を求めてここに来た。そのスタンスからすれば、出口王仁三郎の著作はどれも深く重みがあり、大本神諭には黙示録的な暗示的な真実が含まれているが、教団で接する人に温かみを感じる人は少なく、なにかというと様々な名目で金ばかり要求されてうんざりした。いっそのこと、様々な名目での金の要請をやめてしまってはどうだろう。現代ちまたの税制の型になってしまっている。

 

 

   

 

『国民の大本は皇室である。それを大本を説かねばいかんと思ってやったところが、頭の空気の抜けた智者や学者や新聞記者らが、大本に皇道があり、皇道は大本であるととったものですから、大本事件が起こり検挙された。

  出口王仁三郎全集

 

皇道政治とは天津日継天皇の御神政であって、祭政一致、一大家族制の実現実行である。

 出口王仁三郎著作集 第2巻 p226

 

神のため大君のため国のため  

    つくすわが身に二心あるべき

精霊の世界を救う神の使いを  

    この世の神と見るはうたてき

厳身魂より尊しと狂いたる

    人の言葉を聞くはうたてき 

           31巻余白歌 』

 

騒ぐ信徒に上の言葉をどう思うか聞いてあなたが、なっとくできる答えはかえってきたためしはない。

 

  これを読んで、出口王仁三郎が一時の方便で皇道を説いたと思うなどどうかしている。

 

 つまり出口榮二氏の大本解釈は間違いであり、第三次大本事件の原因は結局栄二氏の側の思想の誤りから生じていたと私は結論っけた。

 むろん教団も細かい解釈で間違いはあったかもしれない。しかし根本的な教義解釈を当時の責任者が間違っていたことは致命的であり、その立場を追われたのは神意のしからしむるところといえよう。

   だが、いくつかの疑問は残る。四代目教主直美様は出口王仁三郎が、出口直の生まれ変わりであり、将来の教主として指名していた。だとすれば、本来の継承者は出口直美ということになる。七代までの道統もしっかりとしている。

 祭の主体と教えの主体である教団が、分離しているという今日の日本の型がそのまま形になってしまった。

だとすれば、出口直美の系統をいつか教団にもどすということであろうか。

 出口日出麿氏はなくなる前の数年間心神喪失状態ではあったが、時々そのときの争いにするかのように短いことばで筆をとっていた。

 いずとみずの会派の人々はこの出口日出麿氏の状態に一切の神秘を感じておられないようであるが、しばしば時期にマッチした言葉が大本の会報誌にとりあげられていた。なかよう(仲良く)。。。そんな内容であったかと思われる。

 別稿

20/6/1
 

 人はなんのために生きているのか。それは現代の学問からは出てこない。私たちは、全世界のアカデミズムを相手にしなければならない。

 目前に広がった世界から真理を読み取らなくてはならない。

 ダーウィンは、進化によって生物を説明した。私たちは偶然生まれ未開の猿のような生き物から進化したと。

しかしそれも仮説にすぎない。

 進化があることはわかるが、文明の全体が、科学も芸術も同じように進化するわけではない。一分は進化し、退化するものもある。

 

 世界の神話は人間が神によって創造されたというものが多い。

 私はまずそれを比喩的に理解した。カミという意思ある存在があり、その意思にしたがって世界が形成された。其の原理を説くものが、宗教であったと。ユダヤの秘教カバラにはそれがあるだろうし、日本の言霊学にも秘されているのかもしれない。

 ロゴスは言霊だ。日本の言語には、その秘密が隠されている。

 この推論はいまでも正しいとおもっている。

      

 カバラの生命の木は興味深い。人間の特性を10セフィロトで説明しようとする。タロットの起源、西洋隠秘学のルーツでもある。

 

 こうした内容が異端扱いされているのは知っている。そして時には邪教として切り捨てられたことも知っている。

 仏教では空海が持ち帰り密教として展開して成功した。すでに中国で権威として確立し、仏教の流派として認められていたからだ。

 しかしいずれにしても細かい点では当時の私にはさっぱりわからなかった。

 出口王仁三郎の書いているところを読むと、密教のルーツは実は太古の古い神道が大陸で仏教化して戻ってきたようなのだ。誰かが太古の伝承を仏教の形に焼き直したのだ。

 法華経は日本では日蓮が簡略化して広めてしまったが、同様に太古の神道のなかで皇室祭祀に関する部分だという説もあった。

 浄土教キリスト教の焼き直しという人もいた。

 これらの宗教が必ずしも空虚な意味のないものではなく、太古神道の教義の断片を伝えていたらしいという事なのだ。

 故に純粋であることは大事なのだが、時代の変遷や民族の歴史を考えれば、頭から否定するより、それぞれの宗教の本来の姿を引き出してやるようにして、民心の向上を図ることが大切なのだ。

 ともあれ私は密教法華経にあまり深入りしなかった。思い出としては空海が身につけたという求聞耳聡明法に関する本を少しかじったが、マントラの回数が多すぎて継続できなかった。それ以上は深入りしなかった。

 そうした私なりの研究を本当に地道な仕事をやりながら続けていた。

 池袋の西武の上の本屋で大本神諭というのに出会うまで。

 その小さな緑色の上下巻の本は、京都の古い方言で書かれたもので、京都生まれの私にとってはなんだかわからない衝撃を受けた。それまでそこまで強い衝撃を受けたことはなかった。言葉が関西弁だったかからなのか。内容は立て替え立て直しの預言で、それらは結局第二次世界大戦で終わったものと思っていた。だから大本は過去のものだと思っていた。だからこそそこから派生した宗教が巷ではたくさんはやっていた。

当時新興宗教にはあちこち頭を突っ込んで、教団というものはこういうものか、勧誘というものはこういうものかと体験していた。だから容易なことで心を持っていかれることはなかった。これはとおもっていろいろ読み始めて出口王仁三郎の伝記を読むにつけ、ああ、あの合気道植芝盛平が師と仰いだ宗教家かと合点がいった。

 

この宗教家については合気道の本で少し聞いていたし、中学くらいに読んでいた成長の家の総裁谷口雅治の師でもあったのでなんとなく分かった。成長の家の宗教観というのは大本から発している。

 

したがって私の入信初期というのは、皇道うんぬんよりも、世界宗教の根っこは一つだというような考え方から入っていった。仏教をやりキリスト教をかじり、新興宗教関連であちこちで入りしていた自分としてはそこに魅かれた。

 

 私の解釈は直観的なもので、立て替え立て直しはこれからくると考えるものだった。実際出口王仁三郎もそのように預言していたらしい。しかしながら大本の本旨はそこにあるのではなく、皇道つまり、天皇中心の世界観であり、途方もない時間にわたる人類文明の歴史だった。日本書紀天孫降臨から百七十数万年という話が出てくるが、それを肯定するもので、偽書といわれる竹内文書くらいしか比すべきものがなかった。古事記日本書紀においてはなぜか神武天皇以前72代ほどが抜けている。

 

はじめはこの荒唐無稽の話をうのみにはできなかった。実際、大本でもリーダー格の人がこんな年代を信じられなかったらしい。

 

また四代目の教主補といわれた出口栄二氏は大本の皇道主義を当時の時代のしからしむところとして方便として理解しようとした。四代教主補は宗教学者であり、常識の枠を出ることができなかった。それもあってか大本から教主補の坐を追われ、地位保全の訴えなどの訴訟までおこした。

 

ちょうどこのさなか私はこの時の論争や論述を読みまた迷いの渦中に沈んだ。

 

教団も栄二派も皇道から離れてしまっていた。祭祀は形だけは保たれていた。

と少なくとも私は思いこんでいた。

 

大本は複雑な宗教で、いいことばかりが起きるわけではない。型として悪いことも起きる。大本で起きることは日本でも、世界でも起きるといわれている。

 

そう考えると教主補が左翼化(本人は自覚なぬ)したことは、日本国内では政治が左翼化する可能性を示している。左翼と保守派の対立はそのまま教団と教主補の対立を映しだしているようであった。

結局皇道はそのまま置き去りになっている。

 

四代目の教主は出口王仁三郎が、後継者としていたし、出口栄二は同じく出口王仁三郎が、探しだしてきて、夫婦となって大本を継いでゆくはずだった。ところが栄二氏が、学の視点にはまりこみ、大本を教団を狭く解釈して地方の民衆宗教として理解してしまった。

 

出口王仁三郎はこれを予測できなかったのであろうか。

 

栄二氏は教団をおわれ、地位保全の訴えを起こし、裁判中教義について話すことはできなくなってしまった。これは神意のしからしむところであったと思う。間違った大本解釈は数多の信者を誤らせる。

 

訴えを起こした時にはまだ三代目教主もおり、出口日出麿も存命だった。娘婿である栄二は嫁の母親と対立したことにる。

 

外部の人間からみるとお家争いである。この間わたしは、真面目な信徒とは言えず、どちらにも顔をだし、時には教団がわ時には栄二派に傾いた。

 

血筋は直美教主が正当である。しかし栄二氏の教義は明らかに間違っている。

 

この間わたしは合気道の本流から別れた武道家や、かつて大本と提携していた道院の笹目秀和という仙人のような人ともあった。笹目氏は戦時中もと徳王のサポートをしていたらしい。鶴にのって中国の仙人にあったなどという突拍子もない逸話をもっていた。にわかに信じがたいが、とりあえず信じてみる。

 

私があった時にはかなり高齢で、細かい会話がなりたたなかった。三代目は道院よりも座禅をこのんだらしく、笹目氏との交流は途絶えていた。合気道植芝盛平とはそりがあわなかったらしい。

 

それぞれの長をまとめていたのは出口王仁三郎だった。

 

道院の座法は仏教の座法よりも楽であるばかりでなく、奥深い。その説明は道教と似ている部分もあるが、あまり既存のものと比較しないほうがいい。既存の知識はおそらく太古の知識の残滓ノコリカスを人があらこれ考えてつくりあげたもので、まちがっているものも多い。

 

道院は太古の座法の直接開示であるから、なにも知らずに教わったほうがよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

普天教

 韓国のなかで、日中の協力を問いた宗教で、現存するが、日本ではあまり資料がない。しかし、太平洋戦争前は日本の神道系の団体とも協力関係にあった。

姜甑山の予言
1871年(明治4年)に朝鮮の金羅道で生まれ、1909年(明治42年)に数え年39歳で没するまでの間、無数の奇跡的な神業を成し遂げて、「天帝の化身」「天師」と崇められた希代の神人・姜甑山の予言である。
「天下蒼生が滅亡の境に到りつつある」

「まず乱法を作った後に直法を出す」

「今、万一西洋人の勢力を退けなければ、東洋は永遠に西洋人に踏みにじられるだろう。故に、西洋人の勢力を退け、東洋を助けるのが正しいので、今、日本人を天地間に大きな働き手として立てよう」

「朝鮮を西洋に渡せば人種が異なる故、差別と虐待が甚だしく、生きる事が不可能であり、又、清国に与えればその民族が愚鈍な故、手におえないであろう。日本は壬辰乱の後に道術神明たちの間に怨恨が結ばれているので、彼らに(朝鮮を)与えてこそ、その怨恨が解かれるだろう。
故に彼らに一時、天下統一の気と日月大明の気を与えて役事を成就させようと思うが、一つだけ与えないものがある。即ち仁の字である。万一、仁の字までも与えれば天下すべて彼ら(日本人)のものになってしまうだろう。故に仁の字だけは君たちに与えるので、この意味をよく守るがいい」

「東洋と西洋を競争させて、傾いた局面を調整しようと思うが、余りにも両者に違いがあり、張り合わせが困難なので、兵(病)で両者を平等にしようと思う」

「将来日清戦争が二度あるだろう。初めは清国が敗れるだろう、二度目に起こる戦いは十年かかり、その結果、日本は追われて本国に帰るであろう。又、胡兵がやってくるだろうが、漢江以南き犯せないだろう」

「元来人間とは、したい事が出来ないと腹がたって大きな病を得るので、それ故、今、すべてのことを自在にし、各々の自由行動にまかせて、まず乱法を作った」

「将来世界・・・(の)国々は色とりどりに入り乱れて、起ちあがり、様々な生活物資を作り出そうと生産競争を呈するだろう」

「嘘はすべての罪の根本であり、真実は万福の根源である。今、神明をして人々を臨監させて、心に判断の基準を設定させ、邪正を鑑定し電光に付すようにするので、心が正しくなくて、邪を行う者に気運が廻る時は、肝が破れて骨筋が飛び出すであろう。運数(運命の巡り)が良かろうと、大峠は越え難いのである」

「後天には、天下が一家のごとくなって武威と刑罰を用いることなく、道化政府は衆生を治め化育するので、官僚は職務の範囲で奉仕を事とし、分限を越える弊害はなくなるだろう。又、庶民は・・・すべての煩悩に悩まされる事なく笑顔で和やかに融合し、日常生活が道徳のまま行われ、老衰病死を免れて不老長寿になり、貧富の差が撤廃されて、美食麗装が意のままになる世に変わるだろう。又、すべてのことは自由な欲求に応じて神明が随伴し、あるいは雲車(飛行機)に乗って空中を飛翔し、遠方でも剣山でも、何処であろうと天が低いので上下することが思うままになり、又、知識が発達して、過去、未来、現在に及ぶ十方世界のすべてのことに精通し、水火風の三災がなくなって、瑞祥が溶け込み、平穏清和な楽園となるであろう」

「日本はあまりに強烈な地気が集まっているので、その民族性が荒く、貪欲で、侵略性が強く、我が国が昔から彼らの侵冠を受け、平和な日が少なかった。それで、その地気を抜いてしまえば我が国も、将来、平和になり、彼の国も又、後日、安全を保てるだろうから、私が今、その地気を抜いてしまう為に、先日、神濠公事を行ったところ、神濠と語音が同じ神戸に火災が起きたのである。これは将来にその地気が大きく抜ける兆候である」

 

相克から相生へ

 私の道は相生の大道である。
 先天では、威勢や武力をもって勝負を決し、
 富貴と栄華をこの道で求めてきた。
 これが即ち相克の流転である。

 私は今、後天を開闢して相生の道を開き、
 善をもって生きる世界を造る。
 万国が相生し,男と女が相生し、
 上の者と下の者が相和し、
 分限を守って己の道に忠実となる。
 全ての徳が根源に帰るので、
 大仁大義の世界となるのだ。


38度線

 現下の大勢は相撲の土俵と同じで、
 童相撲と青年相撲が終わった後、
 上相撲で土俵を終えるだろう。

 (そして、紙に太極の形の線を描きながら、次のように言われた。)

 これが三十八度線である。土俵場は朝鮮の三十八度線に置き、 
 世界の上相撲の場を取らせよう。
 万国裁判所を朝鮮に設けるが、
 土俵場に牛が出れば場が片付くであろう。

乱法

 もともと人間とは、やりたい事が出来なければ
 憤りが積もって大きな病になるものである。
 それ故、これからは、すべてのことを解き放し、各々の自由行動に任せて、
 まず初めに乱法を造り、その後に真法を出す。
 君たちはすべての事において心を正しくしなさい。
 偽りはあらゆる罪の根本であり、真実は万福の根源である。


男女

 今は解冤時代である。
 何千年もの間、厚い囲いの中で、
 男性の玩弄と使役を受けるだけであった女性の恨みを晴らし、
 正陰正陽で乾坤を正す、
 今後は礼法を改め、女性の言うことを聞かずしては、
 男の権利を無闇に行使できない世の中にする。

 人を用いるときは男女の区別なく用いるようになるであろう。
 来るべき世では、男も女も皆、
 大丈夫で大丈婦なのだ。

 

 

戦前右翼の二派(皇道派、統制派)と2.26事件

【1、右翼思想は一枚岩ではない】

 戦後世代のわれわれは右翼をひとまとめにして軍国主義と暴力集団の集まりのようにとらえがちだが、実は似て非なる議論がいろいろあった。

 現代は戦前思想を十把一絡げにして過激な軍事思想として否定してしまっているため戦前思想の整理ができなくなっている。

 こうなった理由は

1、戦後天皇制に脅威を抱いたアメリカが天皇制を維持しようとする勢力を打ち砕き、有力な学者や政治家をことごとく外してしまった、

2、左翼陣営やアメリカから大量のスパイが侵入して反天皇思想をばらまいた、

3、反天皇を主張する者が教育者、学者、日教組のリーダーとなって日本の国民を教育したことにより、日本人の思考と文化はアメリカの資本主義と民主主義、政教の分離、日教組による教育により日本人としてのアイデンティティが破壊されてしまった

ことによる

 そのため、アメリカですらめったにみられない国家斉唱を拒否する公務員教師、国旗掲揚を嫌う公立学校教師が出現することとなった。

 これは他国の思想が日本人に植えつけられてしまったこと。またもともと異国人であったこと。日本側からの視点を失ったために生じる。その結果彼らはもはや自分の国を愛することができないという思想的な統合失調に悩まされることになる。

 他国の人間が日本に住むことを否定するものではない。

 しかしながら公立学校で教鞭をとる公務員が国旗を踏みにじり、国家をうたわないというのは、国の統制をとるうえでいかにもまずい。

 たとえば自衛隊が自国の国家や国旗を踏みにじって目前の敵に懺悔するようでは戦えない。

 自由主義のもとにあって思想は自由であるかもしれない。しかしながら、公教育では国としての教育に一貫性が必要である。公務員としての線引きが必要なはずであるが、それが日本では壊れている。

 また教師が集団にしたがわない態度を見せれば、集団の規律を教えることができなくなってしまう。信念があれば従わなくてもいいという態度を教師が見せれば、子供たちの集団への適応能力は低下して、将来会社などの組織で活動してゆくうえで障害になる可能性もある。

 イエスマンになれというのではない。しかしことあるごとに組織的行動を乱すような人物を量産してしまったら、社会としても国としては秩序が保てなくなり、また個人にとっても不幸なことであろう。

 私立には私立の方針があるそれはそれでいいが公立学校には公立学校の方針があるべきだ。知識を提供し、知識を吸収させる。教育はダウンロード機能でいいというのであれば、何も学校である必要はなくネットで授業を行えばもっと質のよい教育ができるだろう。

 成人式で暴れる20歳が出現した背景にはそのような国の政策のミスがあり、なぜこんなになったのだろうなどととぼけたふりをする大人がいたとしたらバカとしかいいようがない。

 【2、戦前の右翼思想を見極めるための基準】

戦前の右翼といえば皇道派と統制派という分類がある。

どちらも皇室を中心に国家を動かすことを考えてはいたが、

皇道派天皇親政をはっきりと打ち出し、国家社会主義的な思想には反対し、クーデターには反対だった。天皇機関説には反対。中国不拡大方針

●これに反して統制派は東条英機国家総動員法にみられるように軍部が国を統制するという思想が強く、時としてクーデターを手段として使った。中国を屈服させてソ連に向かう。中国への戦線を拡大したかった。

特に対中国の方針で皇道派と統制派の対立は大きくなったらしい。

 

あれ?2.26事件は皇道派じゃなかったっけ・・・と思った人は少しは歴史の本を読んでいる人だろう。

【3、永田VS真崎の対決】

 実はあのクーデターは統制派の永田が皇道派を葬って統制派が優位に立つために仕組んで準備していたともいわれている。

 皇道派の真崎はこのクーデターの首謀者であることを疑われたが、のちに無罪とされた。戦後アメリカの検事が詳細に調査したときも真崎の関与はみとめられず、彼はむしろスケープゴートにされたといわれている。

 永田は自己の野望を貫徹せんとして事件前、皇道派真崎の悪評を流し真崎を要職から更迭するようしむけた。それを恨んだ相沢中佐が永田を殺害したのである。

 そして統制派は、荒木・真崎らエリート皇道派にあこがれる青年将校を扇動して2.26事件を起こしたというのが真相のようです。この扇動に一役買ったのが北一輝というわけです。

 皇道派とは荒木貞夫陸相になった際に要職につけた自らの近しいエリートを指す。陸大卒ですらない相沢中佐や2・26事件の青年将校は本来は皇道派として論外であり、実際に派閥的なつながりは皆無だった。

 永田鉄山は頭の回転もよい秀才で皇道派の将校に殺害され、天才的な政略家として亡き後、惜しまれたが、統制派の部下が書いて出版させたパンフレット国防の本義と其強化の提唱を読むと本当にそうだったかと首をひねりたくなる。

軍人としてはそれなりに優秀だったのかもしれませんが思想としてはあまりにも凡庸で、戦時中の東条体制を彷彿とさせるもだ。

 東条は永田の統制思想を受け継いで国家総動員法を成立させたのです。

 しかしながら永田鉄山の評価が高く、真崎大将の評価がやや低いのは、永田鉄山が真崎大将の悪評を意図的にリークして更迭をすすめたからだといわれています。

 更迭が永田の差し金と知った皇道派の相沢中佐が永田鉄山を殺害しました。

 また石原莞爾は英雄視されているが、真崎とは仲が悪く、永田鉄山とは中国(満州)進出の件で意見が一致していたらしい。

 逆に真崎大将は軍不拡大の方針をとり、これは昭和天皇と意見が一致していた。

 永田鉄山ルーデンドルフというドイツ軍人に心酔していたようであるが、これはのちの東条英機のような人物で国家体制を戦争のためにつくりあげたような人物である。

 戦前右翼思想の巨頭といわれるには北一輝大川周明があげられる。

 中でも北一輝は大部の書物を執筆し、経済界のコネクションから金銭を工面し、2.26事件の青年将校に影響を与えたといわれている。ところがこの二人の思想はいずれも右翼、天皇制というよりは、天皇を利用した国家社会主義といえる。

 このことを真崎大将は見抜いていた。

 「北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣で、それを基にした国家改造は国体に反する、とし、大川周明の思想は国家社会主義であって、共産主義紙一重の差である、と結論づけた。」

そして軍人が参加して革新運動をやると、軍隊を破壊するだけでなく、日本の国を危うくすると認識し、そういう思想の持ち主を注意人物とし、軍人が彼らに近づくことを警戒していた。

 つまり世間で言われている皇道派と統制派の思想は逆で、クーデターをたびたび画策していたのは永田鉄山を筆頭とする統制派のほうで、むしろ真崎大将らはクーデターを警戒し、北一輝らの思想否定して遠ざけようとしていた。

 またカウンターくでたーと言って、皇道派にクーデターを起こさせるか濡れ衣を着せて、統制派がそれを鎮圧するというカウンタークーデターの計画もたびたび露見していた。 

 

※陰謀が露見した士官学校事件

 この事件は軍務局長の永田鉄山士官学校幹事の東条英機が黒幕として、陸軍中央部、士官学校憲兵隊、軍法会議と広範な連絡の下に、士官学校の生徒を扇動して、大規模なテロ事件を計画させ、岡田内閣や政界の重臣らを屠り、その責任を教育総監真崎甚三郎に帰して、皇道派の勢力を陸軍から駆逐して、統制派の軍政を敷こうと計画したが、士官学校の生徒がその陰謀に乗らなかったので、事件を直接画策した片倉衷と辻政信が、自ら描いたテロの陰謀計画をもって、皇道派青年将校士官学校の生徒の不穏計画として密告し、彼らを弾圧し、それをもって士官学校の直接監督の地位にある教育総監の責任を問わんとした事件である 

 

【3、天立君主立憲と立憲君主の違い】

簡単に言うと皇道派出口王仁三郎の説く本来の皇道思想では、天が君主を立て、君主が民のために憲法を立てると考えるが、北一輝美濃部達吉天皇機関説では、天皇も国家という組織の一部で国家の決める法律に従わなければならないことになる。

戦後の視点からみれば、天皇が国家の上にあるのはおかしい。そんな超法規的扱いを受けることはおかしいというだろう。

つまり戦後の憲法天皇を国事行為を行う一機関としてあつかい、立憲君主として違和感を持たないだろう。

今の日本人は素朴にも法律ですべて片が付くと思っている。ところが人間のつくる法律というのは万古不易のものでなく、作られた瞬間時代遅れになっている部分もある。時代が変わり作られた法律が想定しないようなことが次々起きるからだ。

天皇が超法規的に考えられ、国家の上に位置するという考えは日本が法律や機構という無機質なものが国を治めるのではなく、生きた尊敬できる魂が国民の魂と共感し、手段として法律が使われるということを想定していたのだ。

いかに国民の投票で選挙した人々が多数決で法律を作ったとしても、衆愚ということは起こりうる。

そんな中で、神聖、高貴というものと結びついた存在が国の中心にいるということは、私たちの生きる目的をそちらに結び付けてくれる。

たんなる言葉や概念ではなく。生きた神聖さの象徴に心を向けることによって、そしてその存在を尊敬することによって国民の魂に流れ込む。

そのことで国民が一体となって魂が引き上げられる。そういうシステムが太古日本には存在し、それを復活させようとしたのが出口王仁三郎であったし、彼と心をともにした人たちであった。

日本は法治国家ではない徳治国家であるといわれたのはそういうことで、天皇陛下の意思と地位と、国民の意思が一致することで初めてそれが実現する。

逆にそれを妨げる思想が、本来の日本の活力を奪いバラバラにする。

北一輝の思想には革命志向があった。そのことが青年将校を触発した。そしてその革命思想は左翼勢力から流入したものであり、出口王仁三郎らの唱える皇道思想とは異質のものであった。

しかしながら当時においても今日においてもこの区別を理解できる人はごくわずかであり、これが理解できる人だけが、理想的な太古の天立君主立憲政治形態を理解できるというべきであろう。

【まとめ】

天皇を国家という法人の上に置くか下に置くかということである。

天皇を国家の一機関と考えれば、天皇の財産も国家の財産から分配されることになる。天皇は大きな権限を持つが、国家を定めた憲法に拘束される。

過激といわれた北一輝らの思想も同様である。天皇を国家というシステムの中に組み込んで日本を考えている。

これは北がもともと社会主義者であったことも影響していると思われる。彼がスパイだったとまではいわないが、少なくとも日本の右翼思想を誤った方向に導いてしまったといえる。大川周明も変わったとはいえ社会主義から出発している。

つまり日本で有名な北一輝大川周明社会主義の影響を受けて天皇思想を構築したために人為的な間違いをおかしてしまった。

その間違いのカギになる点が天皇が上か国家が上かという点で、彼らは国家社会主義の影響をうけていたため、天皇をその枠内に収めようとしてしまった、そこが最大の間違いだった。

この点を出口王仁三郎は、天皇陛下の独裁でいい、天立君主立憲という言葉で表している。

つまり、天皇陛下は神によって立てられ、憲法に権威を与える権限があるということである。

この名残は日本国憲法でも国事行為として残されていて、この国事行為を国政ではないというのはかな苦しい理屈で、内閣総理大臣最高裁判所の裁判官を任命する者が国政に関与しないという論理には無理がある。

これらの国事行為は国政に関する権能をふるっている証左である。つまりこの日本国憲法は内部矛盾をはらんでいる。

実際には内閣の承認と助言で形式的に行うことになっている。

おそらく、君主の伝統のない国民にはこれが理解できない。

政治的権力のない君主がなぜ、内閣を任命するのか。これは君主制がもっていた政治的権能の名残であるとみることができる。

結局のところどこの国も君主があってもその権能を制限して折り合いをつけているところが多い。これは君主が必ずしも全能ではなく時として夭折、愚鈍、時として横暴であったことが議会や元老院の成立を招いたと思われる。

日本の場合、陛下について述べることは怖れ多いことであるが、一つ問題になるのは昭和天皇ご自身が立憲君主としての立場を通されようとしたということである。これは若いころ陛下ご自身の意見により張作霖爆破事件で筋を通さなかった田中内閣を解散に追いやったことが影響している。

明治憲法は現在の日本国憲法よりははるかに天皇に権威と権能が許されている。しかし明治憲法とても成立の過程で君主の権力を制限するものにするか、制限下に置くべきものかに議論があった。そこである程度の解釈の余地を残しながら成立をさせた。そのことが逆に軍部や政府の暴走を許し、天皇の御意志とは別のところで政治が動き、戦争やむなきにいたる結果となった。

では天皇陛下が意思を明確に打ち出すことで、事態が収拾できたであろうか。

 陛下が意思を明確に打ち出すことで内閣が解散し、組織が成り立たなくなってしまったのである。陛下はその経験から可能な限り憲法を尊重して口を出さぬよう心がけるようになった。

 つまり裃が一致して陛下の意思と一体でないと組織はうまくいかない。国民の考えがばらばらで暴走する輩がいると陛下が強い強制力をもってして政治を動かそうとしてもうまくいかないのである。

 これは日本の統治方法が強制的な専制と異なるところである。国民の思想の一致がぜひとも必要なのである。その前提として政教慣造の一致というのがある。つまり政治も教育も習慣も根本的なところを一致させれば細かい法律を作る必要のない場面が出てくる。

 戦前の事件をみると現場の軍人の暴走がみられる。彼らは陛下を口にしながらも、結果として陛下の意思に背く行動をしてしまっている。つまり軍人の教育と、社会教育が不十分で、異なったものの考え方が国内に広がっていたためである。

陛下が核兵器の開発を制止された。しかるに一部軍人は腹を切ってでも行って詫びるとしている。これは不忠であり、陛下の意志を無視して自分の意志を陛下の存在に結び付けただけだった。かような軍人や政治家が増えた。

中国への侵攻も陛下が意図したことではない。しかるに一部の軍人が目先の利益にとらわれて軍事侵攻を繰り返した。つまり軍の統制が完全にできていなかった。

 

①ニーチェと仏教、因果論の否定

はじめ

 

 最初から神道を信じていたわけではないし、また大本という教えを妄信してきたわけではない。

 父は若いころ共産主義に傾倒したが、生涯宗教を阿片と呼びながら、正月は初詣に出かけ、祝日には門に国旗を掲げた。昭和30年代にはまだそういう風習は残っていたし、私もそれに抵抗はなかった。

 母方の祖父は生き仏のような人で、もと浄土宗であったが親戚の強要で仏壇を破壊され、別宗派に改宗させられたのだが、素朴に題目を唱え祈る人であった。誠に菩薩、天使のような人であった。

 私自身は保育園の時代に物質が粒子で出来ているという話を聞いて、いろいろと世界の構造を夢想する哲学少年だった。

 中学生くらいから増谷文雄という人の仏陀という本を読んで仏教研究にのめりこんでいった。

 その前後は太宰治人間失格高橋信二の釈迦の生い立ちに関する本、ヘッセのシッダールダなどに感銘をうけ、図書館でもありったけの仏教書を読みあさった。

 谷口雅春という人が書いた「生命の実相」という本も立ち読みし、何冊かは購入したりしていた。谷口氏がつくった成長の家については、立ち読み以上には踏み込めなかったが、その考えには共感できる部分が多かった。この時谷口氏が大本出身であることは、あまり認識しておらず、過去にそのような宗教団体があったという話だけは読んだおぼえがある。

 増谷氏の本からはリアルて知的な仏教のイメージを受けた。

 仏教は智慧の道であるという言葉や、戒、定、慧という仏の3学のうち、智慧が最も重要であるとの古い経典の句が頭にしみこんでいた。

 しかしながらいわゆる四諦と縁起をどれほど研究しても人生の問題は解決しなかった。特に四諦は生が苦しみであるという苦観から出発しており、逆に私の人生観を暗いものにした。初期仏教は人を一時的に厭世的にしてしまう。これは仏教の欠点であると気づいたのはかなり後になってからである。

 古い仏典の説話や教典の多くは当時かなり翻訳されており、図書館でむさぼり読んだ。自分は学者になるわけではないので、枝葉末節の字句解釈に振りまわされないようにし、説話などからせっぽうの要点を理解するようのした。シッダールダ太子は菩提樹の下で何を悟ったのか。それが探求の課題であり、文献の解釈には興味はなかった。

 多くの仏典を読み、説話を読んでいったが、できるだけ初期のものを選んで読んだ。大乗仏教になると理解できないだけでなく、異質の部分が多く感じられ、あまり深入りしなかった?

 釈迦は最初四諦や縁起を悟った。それが悟りだといっていたものが、大乗仏教ではそんなものは小乗で。。。などという扱いで、大事なことはもっとあとで説かれたというのである。いかにも大衆部はの負け惜しみの混じった説明で筋が通らない。エリート仏教に対して大衆部が起こした反乱かと思った。

 2500年もたてばどんなに立派な説でも迷信で埋め尽くされる。大乗仏教というのは初期の仏教とは趣を異にしており、これはシャカの説いたものではないと感じるようになった。

 このことは後日ほぼ学説として存在していることを知った。すでに江戸時代の富永仲基という町人学者が喝破していた。彼の批判は的を得ている。

 日本では大乗仏教こそ釈迦の本旨であるということが先入観として確立しているため、小乗といわれる上座仏教を知るためにはインドに行かなければならならない。昔の上座仏教と同じものが現存しているかどうかはわからなかった。セイロンまでゆけばそれらしいものがあるということだった。

 その後は時々流行になるニーチェなどの思想に傾倒した。訳本ではあったが当時出版されているニーチェの著作はほとんど目を通した。

 ニーチェはショーペンハウワーを通じて仏教思想にも接触していて、間接的に影響を受けている。

 今考えると永劫回帰の思想は東洋の輪廻思想の焼き直しと見られないこともない。

 釈迦は瞑想による観方を変えるという方法によって、生老病死や輪廻といううんざりするような生存を解脱する方法を説いた。

 生まれ変わり死に変わりが実際存在するとニーチェがいったわけではない。しかし、

 この瞬間が永劫にくりかえされるとしても、それを肯定して、その永劫回帰を俯瞰する視点に立つことですべてを肯定する、自分が「人」であるという視点を上から俯瞰する。

 そのような視点に立つことを超人と呼び、自分自身を他者を見つめるように客観視する、死を小さな生理学的変化としてとらえる。そんな感覚もつことで、人間の感覚を救済しようとしようとしたと私は考えた。

 この考え方は、一般のニーチェ解釈とは少し違うかもしれない。しかしニーチェほどの複雑な思想家が単純に神を死んだことにして優秀な「超人」を目指す思想を打ち立てたと考えるのは安易すぎる。「力への意思」もまた同様。

 彼が長年研究してきたギリシャやキリストの神や預言者を使わず、ツアラツストラというペルシャ拝火教創始者を著作の題材に選んだのは、東洋的な思想への接近を感じさせる。

 ニーチェは神の死をこのペルシャ預言者の再臨に語らせた。完全な創作である。彼が生きていたら、このようなことは、絶対言わないであろう。

 ツァラツストラはもともと世界には善神と悪神の対立があり、やがて善神が勝つという宗教をひろめたペルシャの宗教家である。

 ニーチェはこれを神話として、思想として理解して、近世の神のイメージがすでに力を失っていう、変質的せて人を救えるものではないと感じ、超人思想や永劫回帰の思想が人類を救うというストーリーを作った。

 これを仏教と対比させるとわかりやすい。

 初期の仏教徒は覚者仏陀を目指して修行する。この修行者は菩薩とも呼ばれ仏陀(覚者)になるために、捨て身で善行を行う存在とされている。時代が下ると菩薩は自分の悟りを後にしても人を救うといわれるようになっていく。

 烏合の衆から覚者になる路程で菩薩は命がけで修行する。このプロセスは人間が動物と超人の間に張り渡された綱渡り師であるのと似ていないだろうか。

 そしてツアラトストラが説いた人間の三様の変化は価値観への態度の変化を現している。最初はらくだで象徴される道徳的存在、次に獅子で象徴される道徳をものともしない力で自分の価値観を創造する存在、最後は子供のように世界と戯れる存在。 

 最近ニーチェの思想がやさしく意訳されるとベストセラーになったが当時私の中ではすでにベストセラーであった。

 しかしニーチェを読み、ニーチェの思想を心身に満しても虚無感は解消されなかった。ニーチェは学者的に三様の変化や超人、力への意思、永劫回帰などという思想を提示したが、それでいったい何人が満ち足りた気分になっただろう。

 確かにニーチェの考察は当を得たものも多く、人間心理の考察は鋭かった。認識の考察も、ヘーゲルやカントといった自分たちが作りだした概念を理解させるのではなく、短文

アフォリズムで表現する手際が良かった。おそらく彼が古代ギリシャの研究で獲得した智慧が流れ込んでいるのだろうと思われた。悲劇の誕生はこれの出世作であり、彼のギリシャ研究の総括でもあろう。かれはこの思想をテコとして自らにしみこんだキリスト教を再評価したかったのだろう。彼は牧師の子供だったのである。

 結局原始仏教の謎を読み解くことができず、かといってニーチェで限界を感じながらアッという間に大学時代は過ぎ去った。振り返ればほとんど無益に過ぎ去った4年間であり、今考えれば両親に対して申し訳ないことをしたと感じる。

 当時自分はまだ探求者であり、絵にすればぼろをまとって各国を放浪する一種の乞食であった。

 縁がなければ良師には巡り合わぬとは言ったが、たぶん良縁はあったのだが気づかなかったのだろう。

 たとえば合気道との接点。合気道の開祖の体術の師匠は武田惣角であるが精神上の師は出口王仁三郎であった。わたしは高校時代、合気道を少しかじっていた。

 

学生時代の思索の一端をもう少し詳しく書こう

 

 ニーチェを読むうちに原始仏教を理解するいくつかのヒントがあった。

 特に因果論の否定は大きい。

 え?因果律を否定するの?というと驚く方も多いだろう。

 種があって実がなる。そこから「結果」という漢字・概念が存在し、その種子を原因と称する。

 「因」は物事の成り立ちが依って立っているところを示している。

 これがあるのはかれがあったから、それを更にさかのぼってもともとは・・という意味で「原」を付ける。

 ところが原因と呼ばれるものにもさらに原因があるといわれることがある。

 そうするとさっき言った原因は根本原因ではない。

 そういうのを因果の連鎖という人もいるが、特定の事象を原因といい、そこから生じた事象を結果といいなれてしまうと、根本原因、最終結果とでもいうものが存在しないことがわかる。

 苦しみがあるのは、私がこの世に存在するからだともいえるし、世の中が悪いせいかもしれない。世の中を悪くしているのは政治家かもしれないし、権力者かもしれない。

 生まれ変わりがあるとして、前世の因縁かもしれない・・・と考えたのが仏教と土着宗教の結合の始まりだった。

 この世あの世をわたっての因果応報というのは実はもともとの仏教の思想ではない。仏教はむしろこうした因果応報の輪廻から自由になる解脱の道を示そうとしていたのである。

 初期の仏典には、釈迦が、生まれる前や死後のことを説こうとしたのではないということが示されている。

 それは「無記」といわれ、死後どうなるか、生まれる前はどうなったかなどとの質問には釈迦はあえて答えず沈黙を守ったという。

 あんまりしつこくいってくる弟子には、語られぬものは語られぬままに受け取れ、それは修行に役立たぬと説教した。

 つまり釈迦の思想は生まれ変わりを論ずるものではなく、、生老病死という人間が直面する苦悩をどうやったら解決できるかということだった。

 釈迦が再発見した縁起は、12縁起としてまとめられた。

 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老病死苦

 仏典によってはこの12個を別々に論じているものもあるし、並べて順序だてているものもある、おそらくばらばらのものが、徐々に12にまとめられていったのであろう。12の縁起については二つの解釈法がある。AとBに分けて説明しよう。

 A群は輪廻転生説から説明しているもの。これは当時のインドにある輪廻転生によって説明したのもの。

 B群は認識が存在しなければ名前も色も、記憶も苦しみも何もなりたたないという、認識論的な発想だった。

 B群が本来の形だと考える。

 我々が触っている物体は我々の感覚と認識という脳の働きを通して物体と認識される。生老病死の苦しみも、記憶や、将来の不安、実際に肉体の衰えから来る痛み、苦しみなどを認識することから生じてくる。だが深い睡眠にみられるように意識がない時は、それらがあるとかないとかいうことはわからない。他人が見てあっても本人にはない。どんな苦しみも認識を遮断すればその時私にとって存在するかしないかという議論がなりたたなくなる。

 ここから誤った解釈が一つでた。仏教は瞑想と教団の環境を整えるために厳しい戒律を設けていた。そのため、感覚や意念を遮断することが修行の重要な道理と考えてしまった人がいたようである。

 欲望から様々な手段を講じて離れることは説いているが、すべてに対する心意思の作用を停止させるのが仏教の教えではない。これは、経にもそういう問答がある。

 心を鎮静させる修行方法も取り入れてはいるが、それが本旨ではない。

 認識の消滅は絶えず起こっており、これを観察してゆくのが縁起生滅観である。これを智慧として、最重要視している。定、つまり座禅による精神の安定はその手段であったし、それによって精神の活動を一切止めてしまうのが目的ではない。

 これと関連して、後世、四諦説は苦しみと苦しみのもとと、苦しみの消滅と八つの正しい道と整理されている。

 しかし古い経典によっては、苦しみと苦しみが生じる縁起の道跡をみつめ、苦しみの滅状態と苦しみが縁によって滅する道跡を見つめるという表現をとっているものがある。

 これは四相縁起と言われているがこの四相縁起の説明が、八正道説とごっちゃになって四諦説が成立したと私は考える。

 苦しみが滅するというのは痛みが消えるというような実際の治癒のプロセスではなく、たとえば自分の死への恐怖がない時のこと、死を想像していない瞬間のことである。

 死が自分に恐怖を与えるのは、私が死を認識し、想像しているときだけである。

 これから洗濯をしなくちゃなどと別のことに集中すると死も死の恐怖も消えている瞬間がある。禅の考案などは、これを気づかせるためのものと推察する。思考が恐怖に力を与えているということをありのままに覚知するというのでもあろうか。

 夢中になれる趣味に没頭していると時間さえ忘れることがある。これは時間認識も思考との縁で生じていることが分かる。

 少なくとも死等についての認識もその瞬間だけはなくなっている。

 結局考えていないことをあとから気づくというところから始まるのだが、そういう関係性に気づいてゆくと、生死の恐怖から一歩退いて物事を見る感覚が生まれてくる。

 心頭滅却すれば火もまたすずしとは言うが、火が涼しいと感じるようでは日常生活がこまる。やけどしてしまう。火は熱い、時には危険と感じながらも冷静さを保っていくというのが目標であるような気がする。

 人の記憶が恐怖に連続性を与えてしまうということ。

 古い仏典でのはなしだが、釈迦が人の居ない森林で瞑想をしていると獣の声が聞こえてきたという。最初のうちはそれが怖くて心が乱れたが、もともと、命を投げ出す覚悟で出家したのに、自分は何考えてんだとばかり反省してみると、実際には獣は襲ってこないので不安が心を乱していることに気づき、命を投げ出し来るままに任せようという気になった。そして心が落ち着いたという体験談が書いてあった。

 はじめて読んだ時は、まあそうなんだけど、そう思っても不安なのが普通人で、それで克服できちゃうのが超人仏陀なんだよなあと思った。

 しかし釈迦の原初の説教と比べて考えると、釈迦は例え話で大事なことを示していることが多い。

 それは、現実に襲ってきたわけでない獣への恐怖は心が作り出すいわば幻影に恐れおののいているのである。

 われわれは生きる上で、また死や病を前にして、必要以上に自分の心を恐怖で煽り立て、心を乱している。

 このことに気づくということが一番大事で、物事に対する想像や記憶が感情を膨らまそうと自分を襲ってきたときに記憶や感情が認識でなり立っていることを強く意識する。

 認識しなければカゲロウのように何もこちらをかく乱することはできない。

 だがこれは危険を予測しないということではない。リスクを承知で出家してきた釈迦が死を恐れるなど何事かということだ。

 これを一つ一つ考えていってみる。確かに耐え難い疼痛のようのものは存在する。

 しかしいわゆる阿羅漢と言った人々は苦痛を受けても一種の精神的な観法で苦痛をやわらげることができたらしい。

 古い仏教典では「第一の矢は受けても第二の矢は受けない」という表現が使われている。

 つまり神経刺激は、それをきっかけにして生じる思い、解釈によって疼痛が耐え難いものになるというのだ。

 ニーチェも似たようなことを言っている。個体の侵害という解釈によって苦痛の程度が左右される。死についても「とるにたらぬ生理的変化」と書いている。

 ニーチェによれば、物質というものは存在しない。それは「我」という概念が投影されたものであるという。

 ニーチェ唯物論者ではない。ニーチェ唯物論という区分に入れている学者はすべて間違いである。

 諸行無常の諸行も、事物が変化すると翻訳するのは間違いである。色とは、物ではない。より正確には、白黒を含めた視角の対象、像である。しかも「変化」というのは、すでに比較による思考の解釈が、混入している。変化ではなく、生滅があるだけ。とニーチェも釈迦と似たようなことを書いている。

 分かりにくい表現で申し訳ないがこの点についてはミリンダ王の問いという書物にナーガセーナとミリンダ王との問答の中に似たような質疑応答がある。

 私というものが存在するのではなく、もろもろの属性の総称をわたしというだけ。

 色受想行識つまり色は目に見える部分、受は感受、想は想念、行識は、意識の総称に過ぎず、当時支配的であったアートマンの理論を否定したのである。

 これがいわゆる仏教の玉ねぎ論であり、剥いていけば人間は核がなく、個体の存続があるわけでなく、流れるようにそれらが生じては消えているだけで、ただそれらには関係性があり、意識がなければ事象の認識はできないところを意識が消えれば名色も消えると説いたのである。

 仏教の場合は、実体についての議論には及ばない。カントのいう物自体、プラトンのいう形相などについて、釈迦は議論を回避した。

 無我とよく言うが、これは当時の思想にアートマンという人間ののなかに核になる存在があるという思想があったため、こんなものはないと否定したのである。

 これが、日本でいうところの霊魂を否定したものであるかどうかは、議論がある。仏教の全体的な印象としては、無霊魂説に傾いているようにみえる。あるいは釈迦自体は、色受想行識は我じゃないといっただけなのかもしれない。非我がいつのまにか無我に傾いていったように思われる。

  イエスキリストが、天国についてあまり詳しくのべなかつたのと似ている。知ったところで悪いことをするやつは悪いことをする。イエスは形而上の議論に時間を費やすことをあえて回避したように釈迦も無益な論争になりそうな部分には沈黙を守った。当時の民衆の知的レベルに合わせて必要なことだけを語った。

 意識がなければ名色が消えるからこの部分だけは間違いないというところから出発している。カントのいう物自体とか、後世議論される阿頼耶識などという話ではない。

「誰が受ける」かという問いかけには対しては、「それは問い方が間違っている、何によって受があるかと問うべき」という返しがかなり古い経典に残されている。

 釈迦は「受」の主体の有無に触れることなく、今まさに感じている「受」がどういうときにあり、どういうときにないかを見つめなさいと言っている。

 まあ、実際理屈の上ではなんとなくわかったようなわからんような、いやわからんというのが正直なところである。

 これは唯識論でもなく、むろん唯物論でもない。一種のセラピーともいえる。

 縁起の核心部分は識あって名色があり、名色があれば識がある。

 行というのは意行と訳されることが多いが、識別するという知的行動の背後にある心理的な動きを示している。

 これらは今の概念では説明が難しいが当時の一般的な概念(法)であったという。釈迦は当時の概念を使って説明すると書いた経典があった。

 色受想行識(五蘊)は釈迦が編み出した特殊な概念ではない。当時流布していた概念を拾い上げて釈迦がそれ利用して縁起を説いたのである。

意識があるから色と名前がある。意識がなくなれば色も名称も、感覚もない。

それ以上でもそれ以下でもない。この関係性をじっと見つめる。

 「私」という恒常的な個体が存続するのではなく、刹那に変転する色受想行識を私と呼んでいるに過ぎないという。

 縁起や五蘊説は結局こうした観照的な視点を獲得することで、われわれがかなり大昔に文化的に引き入れた我執視点のゆがみを回復するものではないかと理解するに至った。

 確かに釈迦は古道を発見したといっていた。自分の発見だとは述べていない。そこから古代7仏の話や阿弥陀仏の話も現れてくるがそれが後世の付け加えだったとしても、再発見であったということは、重要な点である。

 病になっても死にそうになっても冷静な視点を獲得するためには、日ごろから物事の見方を練習しておかねばならない。

 とまあ思ったわけではあるが、ここでタイムアウト

 優雅な学生生活は終わり、社会に放り出された。

 社会に出ると仏教の哲学や座禅など、くその役にも立たない。

 座禅したって翌日には仕事する退屈な朝がくるし、人間関係にもみくちゃにされてストレスも多く、縁起をみようが五蘊を見ようがまったく現実ののしかかる重さにうんざりした。

 全く役に立たないのだ。むしろ求道に必要だった繊細さと道徳心は感覚がとぎすまされすぎて社会で成功するにはじゃまなのた。仏教の哲学なんぞこの重苦しい現実の前には役に立たない。ニーチェだって同じ。

 大乗の教えの必要性がひろまったのはこうした修行できない人びとは悟ることも救われる事もできないのかという現実があったからだろう。

 だが大乗教典の多くはわたしが読んだ限り、人為的で、抽象的におもわれた。あるものは理解できず、これまた何の役にたつのかとおもわれ、原始仏教よりも空虚に思われた。

 法華経は皇室祭祀について、密教は太古の高天原教えの焼き直しであると、日本の神道中興者が書いたのを読むまでは、投げていた。

 空海だけが、本当の言霊を操っていたというから、当時の神道奥義はほぼ伝承が途絶えていたのだろう。

 空海のあやまりといえば本地垂迹仏で、これは仏が神の形であらわれるということであるが、これはさかさまで、この時代、神が仏の姿をかりて人をまもつていたのであろう。

 仏教と古神道についての関係についてはまた後日述べたい。

  

殷周と古朝鮮から高句麗 三千年

 殷と周との戦いというのは、古代アジアの歴史の最重要事項である。
殷は東族、周は西族という見立てから出発すると分かりやすい。そして東族は日本や檀君朝に遡り、殷朝は東族由来だったと考えられている。

 殷以前は夏王朝があったとの伝説があるが、そこについてはまだ私もわからない。ただ洪水により中原も混乱し、太古日本の統治説からすれば、統治ができなくなったということであろう。

 殷の最後の紂王が酒池肉林で人心を失い、周と戦争になって負けた。その時点で殷の祭祀が途絶えたといわれている。ところが、息子の一人が祭器をもって逃げ、祭祀そのものは箕子に引きつがれていたようにも見受けられる。

 正式の祭式は祭器とともに、しかるべき後継者、血統の者が行わなければなさないと思われる。

 例えば日本で言えば天皇の血筋を引いたものが三種の神器を継承し、大嘗祭のような継承の儀式を行わなければならない。

 しかし殷は紂王が最後の統治者として、それを後継に譲れなかった。殷の継承者としての儀式が行われないため、殷国としての祭祀は途切れたといわれている。

 殷が日本と関係があったと思うのは何を根拠にといわれるだろうが、まず殷周の戦争が始まった時に東方からの援軍が来ていることが契丹古伝に出ている。確かにそれが日本からの援軍かどうかは微妙な点がある。また契丹古伝というのは戦時中に発見されたもので日本人が訳したが、偽書だと言われている。

 だが今の時代政治的理由でころころ変わる正史自体が危うい。偽史の中に真実が埋もれていても不思議ではない。契丹古伝は正史以外の各民族史をあつめたような形になっている。

 後世箕子と呼ばれる紂王の叔父が朝鮮を建国したとき檀君がその地方の支配権を譲ったという話がある。檀君については諸説ある。伝承ではファンインという神がいて、熊女(おそらく未開の熊族)と交わって生まれたのが檀君ということになっている。しかし九鬼文書などこれも偽書ではあるが檀君スサノオノミコトのおくり名であるとみることもできる。

 つまりスサノオノミコトの系統が続いていて、殷との系統がおなじなのでその地位を譲ったとも考えられる。
 
 契丹古伝によれば箕子には子がなく、遠征してきた人物から養子を得ている。遠征してきた人物が日本人なら朝鮮と日本はこの時点では兄弟関係にある。浜名というこの古伝書から遠征者は日本の皇子の一人であったと考えている。
 しかし何代かあとに衛瞞という将軍が燕国から亡命、古朝鮮の王は衛瞞を信じて国の重要な場所を守らせたが、なんと裏切り、朝鮮を乗っ取ってしまった。
 こうなると朝鮮はすでにはじめの朝鮮ではない。このとき箕子朝鮮の後継者は、なんとか逃れて別のところにうつったともいわれている。

 時代が変わって朝鮮では朱蒙が、古朝鮮の流民を集めて国を建てた。朱蒙の父は謎の人物で水辺の女性を犯してどこかに去ってしまったといわれているが、奇妙なことに三本足の烏を信仰の対象とし、三種の神器を手にしたといわれている。

 三本足の烏とは日本ではヤカダラスという、神話上の存在てある。三種の神器については諸説あるが、日本の三種の神器の象徴的模型が伝わったのではないかとも考えられる。

 一般にこれは半島の伝承が日本の神話に流れこんだといわれているが、逆の可能性もある。つまり朱蒙の父は日本人。しかも八咫烏と言われた皇族の一人ではないだろうか。

 高句麗の三足鳥も太陽の化身といいわれている。朝鮮の伝承ではなんのことだがわからない。日本の神話と照合すると、朝鮮人にとっては心外だろうが、太陽の化身の意味は、太陽は皇国、アマテラスオオミカミの象徴であり、皇国の命を受けていることを示している。三足烏は日本では神武天皇を先導したことがある人物のシンボルといわれている。

 日本の伝承ではこのヤタガラスはある神話上の人物で神武天皇を導いたとされ、スサノオノミコトの仕えたものの子孫だともみられている。

 先に檀君スサノオノミコトのおくり名だという仮説を書いた。朝鮮の神話ではファンインという神が地元の熊女と交わってできたのが檀君ということになっているが、おくり名であるということであれば、何代にも渡ってこの名前が踏襲されて来たのだろう。

 スサノオノミコトがよく弓を使ったという伝説も残っており、これが朱蒙の弓伝説にも繋がる。

 高句麗の系統は日本の神話と関係が深く、ヤタガラスの系統の人物が朱蒙の父親だったとすれば、話は分かりやすい。

 先日安市城での戦闘の映画を見たが、唐の大軍を破った城主は王を殺害した将軍に反逆し、高句麗を守ろうとした。

 王を殺害するという行為は下克上で、中国朝鮮では易姓革命として肯定されているが、我が国では許されない。

 太古においてはこの行為は非道とされていた。殷周革命の時代でもその記述があるが、そのような国となった高句麗はやがて滅びることとなる。