①ニーチェと仏教、因果論の否定

はじめ

 

 最初から神道を信じていたわけではないし、また大本という教えを妄信してきたわけではない。

 父は若いころ共産主義に傾倒したが、生涯宗教を阿片と呼びながら、正月は初詣に出かけ、祝日には門に国旗を掲げた。昭和30年代にはまだそういう風習は残っていたし、私もそれに抵抗はなかった。

 母方の祖父は生き仏のような人で、もと浄土宗であったが親戚の強要で仏壇を破壊され、別宗派に改宗させられたのだが、素朴に題目を唱え祈る人であった。誠に菩薩、天使のような人であった。

 私自身は保育園の時代に物質が粒子で出来ているという話を聞いて、いろいろと世界の構造を夢想する哲学少年だった。

 中学生くらいから増谷文雄という人の仏陀という本を読んで仏教研究にのめりこんでいった。

 その前後は太宰治人間失格高橋信二の釈迦の生い立ちに関する本、ヘッセのシッダールダなどに感銘をうけ、図書館でもありったけの仏教書を読みあさった。

 谷口雅春という人が書いた「生命の実相」という本も立ち読みし、何冊かは購入したりしていた。谷口氏がつくった成長の家については、立ち読み以上には踏み込めなかったが、その考えには共感できる部分が多かった。この時谷口氏が大本出身であることは、あまり認識しておらず、過去にそのような宗教団体があったという話だけは読んだおぼえがある。

 増谷氏の本からはリアルて知的な仏教のイメージを受けた。

 仏教は智慧の道であるという言葉や、戒、定、慧という仏の3学のうち、智慧が最も重要であるとの古い経典の句が頭にしみこんでいた。

 しかしながらいわゆる四諦と縁起をどれほど研究しても人生の問題は解決しなかった。特に四諦は生が苦しみであるという苦観から出発しており、逆に私の人生観を暗いものにした。初期仏教は人を一時的に厭世的にしてしまう。これは仏教の欠点であると気づいたのはかなり後になってからである。

 古い仏典の説話や教典の多くは当時かなり翻訳されており、図書館でむさぼり読んだ。自分は学者になるわけではないので、枝葉末節の字句解釈に振りまわされないようにし、説話などからせっぽうの要点を理解するようのした。シッダールダ太子は菩提樹の下で何を悟ったのか。それが探求の課題であり、文献の解釈には興味はなかった。

 多くの仏典を読み、説話を読んでいったが、できるだけ初期のものを選んで読んだ。大乗仏教になると理解できないだけでなく、異質の部分が多く感じられ、あまり深入りしなかった?

 釈迦は最初四諦や縁起を悟った。それが悟りだといっていたものが、大乗仏教ではそんなものは小乗で。。。などという扱いで、大事なことはもっとあとで説かれたというのである。いかにも大衆部はの負け惜しみの混じった説明で筋が通らない。エリート仏教に対して大衆部が起こした反乱かと思った。

 2500年もたてばどんなに立派な説でも迷信で埋め尽くされる。大乗仏教というのは初期の仏教とは趣を異にしており、これはシャカの説いたものではないと感じるようになった。

 このことは後日ほぼ学説として存在していることを知った。すでに江戸時代の富永仲基という町人学者が喝破していた。彼の批判は的を得ている。

 日本では大乗仏教こそ釈迦の本旨であるということが先入観として確立しているため、小乗といわれる上座仏教を知るためにはインドに行かなければならならない。昔の上座仏教と同じものが現存しているかどうかはわからなかった。セイロンまでゆけばそれらしいものがあるということだった。

 その後は時々流行になるニーチェなどの思想に傾倒した。訳本ではあったが当時出版されているニーチェの著作はほとんど目を通した。

 ニーチェはショーペンハウワーを通じて仏教思想にも接触していて、間接的に影響を受けている。

 今考えると永劫回帰の思想は東洋の輪廻思想の焼き直しと見られないこともない。

 釈迦は瞑想による観方を変えるという方法によって、生老病死や輪廻といううんざりするような生存を解脱する方法を説いた。

 生まれ変わり死に変わりが実際存在するとニーチェがいったわけではない。しかし、

 この瞬間が永劫にくりかえされるとしても、それを肯定して、その永劫回帰を俯瞰する視点に立つことですべてを肯定する、自分が「人」であるという視点を上から俯瞰する。

 そのような視点に立つことを超人と呼び、自分自身を他者を見つめるように客観視する、死を小さな生理学的変化としてとらえる。そんな感覚もつことで、人間の感覚を救済しようとしようとしたと私は考えた。

 この考え方は、一般のニーチェ解釈とは少し違うかもしれない。しかしニーチェほどの複雑な思想家が単純に神を死んだことにして優秀な「超人」を目指す思想を打ち立てたと考えるのは安易すぎる。「力への意思」もまた同様。

 彼が長年研究してきたギリシャやキリストの神や預言者を使わず、ツアラツストラというペルシャ拝火教創始者を著作の題材に選んだのは、東洋的な思想への接近を感じさせる。

 ニーチェは神の死をこのペルシャ預言者の再臨に語らせた。完全な創作である。彼が生きていたら、このようなことは、絶対言わないであろう。

 ツァラツストラはもともと世界には善神と悪神の対立があり、やがて善神が勝つという宗教をひろめたペルシャの宗教家である。

 ニーチェはこれを神話として、思想として理解して、近世の神のイメージがすでに力を失っていう、変質的せて人を救えるものではないと感じ、超人思想や永劫回帰の思想が人類を救うというストーリーを作った。

 これを仏教と対比させるとわかりやすい。

 初期の仏教徒は覚者仏陀を目指して修行する。この修行者は菩薩とも呼ばれ仏陀(覚者)になるために、捨て身で善行を行う存在とされている。時代が下ると菩薩は自分の悟りを後にしても人を救うといわれるようになっていく。

 烏合の衆から覚者になる路程で菩薩は命がけで修行する。このプロセスは人間が動物と超人の間に張り渡された綱渡り師であるのと似ていないだろうか。

 そしてツアラトストラが説いた人間の三様の変化は価値観への態度の変化を現している。最初はらくだで象徴される道徳的存在、次に獅子で象徴される道徳をものともしない力で自分の価値観を創造する存在、最後は子供のように世界と戯れる存在。 

 最近ニーチェの思想がやさしく意訳されるとベストセラーになったが当時私の中ではすでにベストセラーであった。

 しかしニーチェを読み、ニーチェの思想を心身に満しても虚無感は解消されなかった。ニーチェは学者的に三様の変化や超人、力への意思、永劫回帰などという思想を提示したが、それでいったい何人が満ち足りた気分になっただろう。

 確かにニーチェの考察は当を得たものも多く、人間心理の考察は鋭かった。認識の考察も、ヘーゲルやカントといった自分たちが作りだした概念を理解させるのではなく、短文

アフォリズムで表現する手際が良かった。おそらく彼が古代ギリシャの研究で獲得した智慧が流れ込んでいるのだろうと思われた。悲劇の誕生はこれの出世作であり、彼のギリシャ研究の総括でもあろう。かれはこの思想をテコとして自らにしみこんだキリスト教を再評価したかったのだろう。彼は牧師の子供だったのである。

 結局原始仏教の謎を読み解くことができず、かといってニーチェで限界を感じながらアッという間に大学時代は過ぎ去った。振り返ればほとんど無益に過ぎ去った4年間であり、今考えれば両親に対して申し訳ないことをしたと感じる。

 当時自分はまだ探求者であり、絵にすればぼろをまとって各国を放浪する一種の乞食であった。

 縁がなければ良師には巡り合わぬとは言ったが、たぶん良縁はあったのだが気づかなかったのだろう。

 たとえば合気道との接点。合気道の開祖の体術の師匠は武田惣角であるが精神上の師は出口王仁三郎であった。わたしは高校時代、合気道を少しかじっていた。

 

学生時代の思索の一端をもう少し詳しく書こう

 

 ニーチェを読むうちに原始仏教を理解するいくつかのヒントがあった。

 特に因果論の否定は大きい。

 え?因果律を否定するの?というと驚く方も多いだろう。

 種があって実がなる。そこから「結果」という漢字・概念が存在し、その種子を原因と称する。

 「因」は物事の成り立ちが依って立っているところを示している。

 これがあるのはかれがあったから、それを更にさかのぼってもともとは・・という意味で「原」を付ける。

 ところが原因と呼ばれるものにもさらに原因があるといわれることがある。

 そうするとさっき言った原因は根本原因ではない。

 そういうのを因果の連鎖という人もいるが、特定の事象を原因といい、そこから生じた事象を結果といいなれてしまうと、根本原因、最終結果とでもいうものが存在しないことがわかる。

 苦しみがあるのは、私がこの世に存在するからだともいえるし、世の中が悪いせいかもしれない。世の中を悪くしているのは政治家かもしれないし、権力者かもしれない。

 生まれ変わりがあるとして、前世の因縁かもしれない・・・と考えたのが仏教と土着宗教の結合の始まりだった。

 この世あの世をわたっての因果応報というのは実はもともとの仏教の思想ではない。仏教はむしろこうした因果応報の輪廻から自由になる解脱の道を示そうとしていたのである。

 初期の仏典には、釈迦が、生まれる前や死後のことを説こうとしたのではないということが示されている。

 それは「無記」といわれ、死後どうなるか、生まれる前はどうなったかなどとの質問には釈迦はあえて答えず沈黙を守ったという。

 あんまりしつこくいってくる弟子には、語られぬものは語られぬままに受け取れ、それは修行に役立たぬと説教した。

 つまり釈迦の思想は生まれ変わりを論ずるものではなく、、生老病死という人間が直面する苦悩をどうやったら解決できるかということだった。

 釈迦が再発見した縁起は、12縁起としてまとめられた。

 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老病死苦

 仏典によってはこの12個を別々に論じているものもあるし、並べて順序だてているものもある、おそらくばらばらのものが、徐々に12にまとめられていったのであろう。12の縁起については二つの解釈法がある。AとBに分けて説明しよう。

 A群は輪廻転生説から説明しているもの。これは当時のインドにある輪廻転生によって説明したのもの。

 B群は認識が存在しなければ名前も色も、記憶も苦しみも何もなりたたないという、認識論的な発想だった。

 B群が本来の形だと考える。

 我々が触っている物体は我々の感覚と認識という脳の働きを通して物体と認識される。生老病死の苦しみも、記憶や、将来の不安、実際に肉体の衰えから来る痛み、苦しみなどを認識することから生じてくる。だが深い睡眠にみられるように意識がない時は、それらがあるとかないとかいうことはわからない。他人が見てあっても本人にはない。どんな苦しみも認識を遮断すればその時私にとって存在するかしないかという議論がなりたたなくなる。

 ここから誤った解釈が一つでた。仏教は瞑想と教団の環境を整えるために厳しい戒律を設けていた。そのため、感覚や意念を遮断することが修行の重要な道理と考えてしまった人がいたようである。

 欲望から様々な手段を講じて離れることは説いているが、すべてに対する心意思の作用を停止させるのが仏教の教えではない。これは、経にもそういう問答がある。

 心を鎮静させる修行方法も取り入れてはいるが、それが本旨ではない。

 認識の消滅は絶えず起こっており、これを観察してゆくのが縁起生滅観である。これを智慧として、最重要視している。定、つまり座禅による精神の安定はその手段であったし、それによって精神の活動を一切止めてしまうのが目的ではない。

 これと関連して、後世、四諦説は苦しみと苦しみのもとと、苦しみの消滅と八つの正しい道と整理されている。

 しかし古い経典によっては、苦しみと苦しみが生じる縁起の道跡をみつめ、苦しみの滅状態と苦しみが縁によって滅する道跡を見つめるという表現をとっているものがある。

 これは四相縁起と言われているがこの四相縁起の説明が、八正道説とごっちゃになって四諦説が成立したと私は考える。

 苦しみが滅するというのは痛みが消えるというような実際の治癒のプロセスではなく、たとえば自分の死への恐怖がない時のこと、死を想像していない瞬間のことである。

 死が自分に恐怖を与えるのは、私が死を認識し、想像しているときだけである。

 これから洗濯をしなくちゃなどと別のことに集中すると死も死の恐怖も消えている瞬間がある。禅の考案などは、これを気づかせるためのものと推察する。思考が恐怖に力を与えているということをありのままに覚知するというのでもあろうか。

 夢中になれる趣味に没頭していると時間さえ忘れることがある。これは時間認識も思考との縁で生じていることが分かる。

 少なくとも死等についての認識もその瞬間だけはなくなっている。

 結局考えていないことをあとから気づくというところから始まるのだが、そういう関係性に気づいてゆくと、生死の恐怖から一歩退いて物事を見る感覚が生まれてくる。

 心頭滅却すれば火もまたすずしとは言うが、火が涼しいと感じるようでは日常生活がこまる。やけどしてしまう。火は熱い、時には危険と感じながらも冷静さを保っていくというのが目標であるような気がする。

 人の記憶が恐怖に連続性を与えてしまうということ。

 古い仏典でのはなしだが、釈迦が人の居ない森林で瞑想をしていると獣の声が聞こえてきたという。最初のうちはそれが怖くて心が乱れたが、もともと、命を投げ出す覚悟で出家したのに、自分は何考えてんだとばかり反省してみると、実際には獣は襲ってこないので不安が心を乱していることに気づき、命を投げ出し来るままに任せようという気になった。そして心が落ち着いたという体験談が書いてあった。

 はじめて読んだ時は、まあそうなんだけど、そう思っても不安なのが普通人で、それで克服できちゃうのが超人仏陀なんだよなあと思った。

 しかし釈迦の原初の説教と比べて考えると、釈迦は例え話で大事なことを示していることが多い。

 それは、現実に襲ってきたわけでない獣への恐怖は心が作り出すいわば幻影に恐れおののいているのである。

 われわれは生きる上で、また死や病を前にして、必要以上に自分の心を恐怖で煽り立て、心を乱している。

 このことに気づくということが一番大事で、物事に対する想像や記憶が感情を膨らまそうと自分を襲ってきたときに記憶や感情が認識でなり立っていることを強く意識する。

 認識しなければカゲロウのように何もこちらをかく乱することはできない。

 だがこれは危険を予測しないということではない。リスクを承知で出家してきた釈迦が死を恐れるなど何事かということだ。

 これを一つ一つ考えていってみる。確かに耐え難い疼痛のようのものは存在する。

 しかしいわゆる阿羅漢と言った人々は苦痛を受けても一種の精神的な観法で苦痛をやわらげることができたらしい。

 古い仏教典では「第一の矢は受けても第二の矢は受けない」という表現が使われている。

 つまり神経刺激は、それをきっかけにして生じる思い、解釈によって疼痛が耐え難いものになるというのだ。

 ニーチェも似たようなことを言っている。個体の侵害という解釈によって苦痛の程度が左右される。死についても「とるにたらぬ生理的変化」と書いている。

 ニーチェによれば、物質というものは存在しない。それは「我」という概念が投影されたものであるという。

 ニーチェ唯物論者ではない。ニーチェ唯物論という区分に入れている学者はすべて間違いである。

 諸行無常の諸行も、事物が変化すると翻訳するのは間違いである。色とは、物ではない。より正確には、白黒を含めた視角の対象、像である。しかも「変化」というのは、すでに比較による思考の解釈が、混入している。変化ではなく、生滅があるだけ。とニーチェも釈迦と似たようなことを書いている。

 分かりにくい表現で申し訳ないがこの点についてはミリンダ王の問いという書物にナーガセーナとミリンダ王との問答の中に似たような質疑応答がある。

 私というものが存在するのではなく、もろもろの属性の総称をわたしというだけ。

 色受想行識つまり色は目に見える部分、受は感受、想は想念、行識は、意識の総称に過ぎず、当時支配的であったアートマンの理論を否定したのである。

 これがいわゆる仏教の玉ねぎ論であり、剥いていけば人間は核がなく、個体の存続があるわけでなく、流れるようにそれらが生じては消えているだけで、ただそれらには関係性があり、意識がなければ事象の認識はできないところを意識が消えれば名色も消えると説いたのである。

 仏教の場合は、実体についての議論には及ばない。カントのいう物自体、プラトンのいう形相などについて、釈迦は議論を回避した。

 無我とよく言うが、これは当時の思想にアートマンという人間ののなかに核になる存在があるという思想があったため、こんなものはないと否定したのである。

 これが、日本でいうところの霊魂を否定したものであるかどうかは、議論がある。仏教の全体的な印象としては、無霊魂説に傾いているようにみえる。あるいは釈迦自体は、色受想行識は我じゃないといっただけなのかもしれない。非我がいつのまにか無我に傾いていったように思われる。

  イエスキリストが、天国についてあまり詳しくのべなかつたのと似ている。知ったところで悪いことをするやつは悪いことをする。イエスは形而上の議論に時間を費やすことをあえて回避したように釈迦も無益な論争になりそうな部分には沈黙を守った。当時の民衆の知的レベルに合わせて必要なことだけを語った。

 意識がなければ名色が消えるからこの部分だけは間違いないというところから出発している。カントのいう物自体とか、後世議論される阿頼耶識などという話ではない。

「誰が受ける」かという問いかけには対しては、「それは問い方が間違っている、何によって受があるかと問うべき」という返しがかなり古い経典に残されている。

 釈迦は「受」の主体の有無に触れることなく、今まさに感じている「受」がどういうときにあり、どういうときにないかを見つめなさいと言っている。

 まあ、実際理屈の上ではなんとなくわかったようなわからんような、いやわからんというのが正直なところである。

 これは唯識論でもなく、むろん唯物論でもない。一種のセラピーともいえる。

 縁起の核心部分は識あって名色があり、名色があれば識がある。

 行というのは意行と訳されることが多いが、識別するという知的行動の背後にある心理的な動きを示している。

 これらは今の概念では説明が難しいが当時の一般的な概念(法)であったという。釈迦は当時の概念を使って説明すると書いた経典があった。

 色受想行識(五蘊)は釈迦が編み出した特殊な概念ではない。当時流布していた概念を拾い上げて釈迦がそれ利用して縁起を説いたのである。

意識があるから色と名前がある。意識がなくなれば色も名称も、感覚もない。

それ以上でもそれ以下でもない。この関係性をじっと見つめる。

 「私」という恒常的な個体が存続するのではなく、刹那に変転する色受想行識を私と呼んでいるに過ぎないという。

 縁起や五蘊説は結局こうした観照的な視点を獲得することで、われわれがかなり大昔に文化的に引き入れた我執視点のゆがみを回復するものではないかと理解するに至った。

 確かに釈迦は古道を発見したといっていた。自分の発見だとは述べていない。そこから古代7仏の話や阿弥陀仏の話も現れてくるがそれが後世の付け加えだったとしても、再発見であったということは、重要な点である。

 病になっても死にそうになっても冷静な視点を獲得するためには、日ごろから物事の見方を練習しておかねばならない。

 とまあ思ったわけではあるが、ここでタイムアウト

 優雅な学生生活は終わり、社会に放り出された。

 社会に出ると仏教の哲学や座禅など、くその役にも立たない。

 座禅したって翌日には仕事する退屈な朝がくるし、人間関係にもみくちゃにされてストレスも多く、縁起をみようが五蘊を見ようがまったく現実ののしかかる重さにうんざりした。

 全く役に立たないのだ。むしろ求道に必要だった繊細さと道徳心は感覚がとぎすまされすぎて社会で成功するにはじゃまなのた。仏教の哲学なんぞこの重苦しい現実の前には役に立たない。ニーチェだって同じ。

 大乗の教えの必要性がひろまったのはこうした修行できない人びとは悟ることも救われる事もできないのかという現実があったからだろう。

 だが大乗教典の多くはわたしが読んだ限り、人為的で、抽象的におもわれた。あるものは理解できず、これまた何の役にたつのかとおもわれ、原始仏教よりも空虚に思われた。

 法華経は皇室祭祀について、密教は太古の高天原教えの焼き直しであると、日本の神道中興者が書いたのを読むまでは、投げていた。

 空海だけが、本当の言霊を操っていたというから、当時の神道奥義はほぼ伝承が途絶えていたのだろう。

 空海のあやまりといえば本地垂迹仏で、これは仏が神の形であらわれるということであるが、これはさかさまで、この時代、神が仏の姿をかりて人をまもつていたのであろう。

 仏教と古神道についての関係についてはまた後日述べたい。