②皇道大本との邂逅 第三次大本事件のさなか

16/03/13
 

  大学卒業後、私は名誉も地位も興味がなく、アルバイトの延長のような仕事についた(一応一部上場の正社員ではあったが仕事の内容はアルバイトと変わらない。)。しかしこれが意外にきつかった。

 ここから約5年は他の人の苦労話と変わらない。

 若者の労働を搾取して経営者が肥え太る。それが当たり前といわんばかりの時代で、上司は平気で部下を罵倒し、つるし上げることもたびたびだった。パワハラが日常茶飯事だった。

 上場ではあっても今でいえば職場は完全なブラックだった。組合はあってもなれ合い。ただ、今考えるとその後経験した組合のない企業よりはましだった。

 まああたりまえなのだがそういう世間の見えない部分を私は知らなかった。

 ブラックの問題はこのころからあったが、訴えるすべがなかった。労基にはできるだけトラブルにならないような言い方をされた。

 延々と続く労働の中で手に職を付けるために専門学校にいって技術を習得してやり直しを試みた。

 しかしここでも徒弟制度を利用したブラック地獄が待ち構えていた。専門職では先行者が後発組を食いつぶす。

 この地獄のような日々に私は青春時代を消耗した。スタートを誤ったといわれればそれまでだが、おそらくどんな企業に勤めても問題ある部署に回されたのかもしれない。そういう経験が必要な時期だったと思っている。

 何故かといえば、真理の探究をしながらも、自分自身の信仰に問題があったからだ。

 無神論とまで言わないまでも不可知論者であり、もし自分に使命があるとすれば大転換が必要であった。

 もうだめだというところまで追い詰められなければ、魂にこびりついた垢ははがれないものなのだ。身魂(みたま)の立て替え立て直しというわけである。

 私が勤めた企業や事業所の多くは他社に吸収合併されて消滅した。その後も私が勤めてこれはだめだと見限った会社はほとんどがつぶれている。そういうところは人がしょっちゅうやめるから募集も多いし入りやすい。だがやはり続かない。

 最初の会社は一部上場だが競争の激しい分野で業界5位くらい、入った頃からどこが生き残るかとささやかれていた。寄り合い所帯的な経営では激しい業界では長く生き残れないと知らなかった。利益をきちんと確保しながらシビアな経営をしているところが生き残った。

 だがそれが働いている職員にとって幸せかどうかはわからない。会社は生き残っても職員の入れ替わりは激しかった。幸せなのは経営者だけというところもある。

 今考えれば入った会社の生き残りは難しいと判断できたかもしれない。一流の会社で底辺に回されるより、三流の会社で頭角を現したほうがよいと考えたのだが、三流の会社は能力的にも人間的にも問題を抱えている人も多く、足の引っ張り合いも尋常ではなく、教育など、どれほど上層部がカリキュラムを組んでも現場はまた違ったルールが支配していた。下克上の世界でゆっくり宗教と人生を考える余裕がない。

 履歴書がどんどん黒くなるのは必ずしも人物のせいだけではない。業界によってはそれが当たり前のところもあるが、転職時、書類上は不利になる。

 犯罪に手を染めなかったのが不幸中の幸いだが、社会の黒い部分はたくさん見てきた。ある程度の柔軟性は必要だがどこまでが境界線なのかはなかなか難しい時もある。

 引き返せないような悪事は断じて避けるべきだろうし、身体を悪くするような仕事は修行といえども避けるべきである。仕事を辞めるのは勇気がいることであり、なんの準備もなければ立場も弱い。反社会的人物が企業を経営していることもある。

 戦略としては逃げ道は必ず確保しておけということである。それがあってこそ一か八かの賭けができる。ドラマのように退路を断つというのはやってはならない。

 もし社で上司に嵌められるようなことがあっても、ただで転ぶことのないよう常に策を練っておかなければならない。

 さもなくば、サラリーマンの社会では後手に回り不本意な結果に陥れられる。家族がある人はなおさらである。

 世間を知らぬ女性や順風漫歩できた人には理解しがたいだろうが、ドラマで展開するような卑劣な事態というものは現実に起こりうる。

 自分の側に正義と徳があると絶対とはいえなきまでも、成功の確率はあがる。最終的にやめることになっても、我か勝てりという気持ちがのこり、相手に後悔をあたえられる。 

 ただ私がこのような不遇な境遇になったのは振り返れば、自分の側にも問題を抱えていたせいなのかもしれない。反省は必要であるが、落ち込む必要はない。

 この地獄のような日々の中で池袋の書店で大本神諭に出会った。

それまでは谷口雅治氏の生命の実相という本で大本の存在は知っていたが、単なる終末預言をした過去の宗教と思い込んでいた。

 初めてその京都なまりの入った神諭を読んだ。

 衝撃であった。

 内容もだが、その文体や言葉の力に揺さぶられた。言葉が私の想像力を揺さぶった。かつてない経験であった。なんといってよいかはわからない、かつてないほど動揺した。すぐさま買いこみ読破し、亀岡の大本の本部へ話を聞きに行った。

 巨人出口王仁三郎という本も買い込み、感銘を受け、そこから大本を研究し始めた。

 

 仏教畑を歩いてきた私にとって、神道系の思想を受け入れることは思いのほか難しかった。世界観がかなり違う。仏教系思想はどちらかといえば抽象的な側面が強い。これに対し神道系は国家観が明確で、現実的である。 

 大本は神道新興宗教に分類されているが、出口王仁三郎に言わせれば太古神道の復興に過ぎない。

 「ぶつではたちゆかんぞよ」と言うお筆さき、神示があるが、これは仏つまり仏教ではだめだという意味と物質の学つまり唯物論的な科学では物事は行き詰るという二重の意味を示している。

 しかし大本は「ぶつではたちゆかんぞよ」といいながらミロクの世などという仏教的な言葉が随所に使われ神仏習合的な側面も見せている。これはどういうことなのか。

 日本は本来神道の国であり、仏教は外来宗教である。この戦いがあったのは物部と蘇我氏の頃であるとは知っていたが自分の中で仏教を根本的に否定したのは初めてで、それまでの人生をやり直すぐらいの衝撃だった。

 大本の文献を読み解いてゆくと大本は官憲に弾圧されたものの、実際のところ天皇制を否定してはいない。

 ところが、当時は第三次大本紛争というのが起こっており、信者が分裂して、天皇制のことなどわからなくなっていた。

 私が会った大本信者には4種類の意見があった。

1、弾圧した官憲を天皇陛下と結び付けて、天皇制の側VS民衆の宗教大本と考えている人

2、信仰と天皇制を切り離して考え、霊界物語は読み、宗教として式典にも出席するが、天皇制についてはあまり考えたことのない人

3、大本の教義は天皇制の真の姿を説くもので、天皇制を支持する人。

4、天皇制についてはあまり声高に語らない、タブーと考えている人。

 大本を外部から評している人の中には1説を取る人も多い。4代目の教主補(教主を補佐する男性)にあたる出口栄二氏が2、の大本の信仰と天皇制に関して、天皇家を特別なものと考えておらず、世界の将来は共和政に近い状態になると主張していた。

 また孫の和明氏がつくったいずとみずの会(のちの愛善苑)は出口王仁三郎の出自について、有栖川宮熾仁落胤説を繰り返し強調し、出口王仁三郎こそが救世主ということを非常に強く打ち出た。出口日出麿という当時存命だが心神喪失状態といわれていた三代目の教主補を軽んじ、スサノオを中心とした独特の教義を確立していった。

 同じ文献を読んでいて、なぜこうも意見が違ってくるのか、とおもった。文献を素直に読んでみれば大本の教えは皇道であり、皇道大本にほかならない。それが時代錯誤であろうと、戦前の天皇制がファシズムといわれようと、出口王仁三郎の思想は我が国の皇道を説いたもので、戦前という時代に迎合して仮の姿をとったものではない。 

 むしろ当時の政府が人為的な国家神道を作り出し、勢いをもってきた大本を天皇に対立するものとして弾圧したのが真相である。

 ところがその話がタブーになって戦後数十年たつと、信者は天皇制と大本との関係性が分からなくなっていた。

 大本で、これに明確に答えられる人と会うことはほとんどいなかった(ただしゼロではなく、当時一人、最近でも冊子上で教団内部に一人見ている。)。あたかもそれは問題の核心ではないとでも言うかのようにこの話題をさけ、言葉を濁す人が多かった。

 しかし私はおおもとが弾圧された原因は第一次も、第二次も皇道についてのであり第三次の原因もこの点の理解が一致していないから起きたと考えている。

 四代目の教主補出口榮二氏は出口王仁三郎自らが探し出した人物でありやはりこの人の母親は有栖川宮熾仁親王落胤であるという。本人は早稲田大学の宗教学の講師をしていた。

 それほどの人が教義を読み間違えることがあるのか。氏の解釈が間違っていることを明らかにするには相当時間がかかった。

 この方は教団存続の期待を背負っていった。しかしこの方の大本解釈は「皇道大本」ではなかった。

 

   

 戦後の吉岡発言を金科玉条にして、戦前の皇道大本の思想や活動を時代のしからしむところとしてすべて否定的に扱ってしまっていたのである。

 戦後は榮氏が思うほど自由ではなかった。GHQによる言論統制は厳しく、神道指令が出ており、皇道について話すことはできなかった。大本も愛善苑として出発した。吉岡発言こそ占領下で天皇制について語ることができない時代の発言として理解すべきである。

 榮二氏は将来の世界像として共和政をイメージしていた。天皇家は特別なものではなく、一つの家族として存続すればいいというような社会主義的思想もっていて、批判されても仕方のないようなことを言っていたのである。

 戦前の皇道大本の完全否定である、

 私はこの方の論文集を購入し、その思想をかなり調べた。榮二氏の解釈で大本を見るとダイナミックな世界宗教である大本が、なんだか一地方の民衆宗教に過ぎないように感じられた。実際榮二氏の出版した本には民衆の宗教という修飾語がついていることが多い。これはまた国家権力に対立した国民の側の宗教というニュアンスが含まれているが、大本はそのような単純なものではない。

 

 二代目教主補出口日出麿氏まではその言動は感動するところが大きかったが、この四代目教主補の思想は腑に落ちなかった。

 四代教主補は四代教主とともに大本の後継者からは外され、大本信徒連合会という組織をつくり独自に活動しながら、地位保全の訴えを起こしていた。教団内で後継者争いが起き、訴訟にまで発展したというのは誠に醜く恥ずかしいお家騒動である。

 出口王仁三郎の孫にあたる出口和明氏は別にいずとみずの会(のちの愛善苑)という団体をつくり、独自の解釈を展開していた。スサノオ出口王仁三郎救世主、皇胤などがこの団体のキーワードである。

 二つの外部団体は大学や出版界にパイプがあり、一般的な書物で第三次大本事件についての情報を流した、大本教団の公式見解とともに錯綜した情報が巷に流れ、「皇道大本」という問題の核心は深く埋もれていった。この3つの団体のいづれもが皇道大本に目を向けていなかった。教団のやり方、後継者や権力争いについての流言が流れ、何が本当かわからなくなった。

 大本が皇道つまり天皇制の真の姿を開示して天皇の世界統治を補佐するという考え方は、先の戦争とのからみや日本の侵略論がからまって、今の時代には危険思想ととらえかねない。そのために今はこれを公言する者はほとんどない。

 しかし統治が強制ではなく、全世界市民の望みであるとなればそれは話は変わってくる。

 統治には覇道と皇道があり覇道による統治は君主が力によって押さえつける統治であるが、皇道の統治はタミがキミを愛し、君と民の意思が神のもとに一致するというものである。、それが神に意思にしたがう神政復古を意味している。この考え方は現代では戦後ファシズムと同じ引き出しに入れられている。戦前の軍閥統制派東条英機らの影響で日本の天皇制がイタリヤやドイツのファシズムをまねたために屈折が生じ、国民の大半が天皇制の存続は望んでいるが天皇制を頂点として国づくりをすることに拒否反応を示しているからである。

 覇道ではない皇道という概念自体が欧米の政治概念にないため、太古日本の政治形態を正しく分析できないのである。

 わずかに中国の徳治というのがこれに近く、無為にして化すという老子の思想は太古政治の片鱗を伝えている。ただし神道の徳治の徳は儒教的な道徳の徳ではなく、神徳を意味し神徳による天皇の統治こそが日本の本来の統治形態である。またプラトンも国家論の中で太古の統治の片鱗を伝えている。神を認めてさえこれだけ分派が生じるのであるから、神を認めなければ皇道など一般の学者に理解できようもない。

 大本の信者でもごく一部はこのことを理解しているだろうが、大本の信者とて、出口王仁三郎を救世主と考える人は多いが、天皇陛下を世界の君主と考える人はおそらく稀だろう。

 ヒトラーの独裁と同じではないのか。。。と同じ引き出しに入れてしまう人がほとんどである。すぐに戦前の軍政を重ねてしまう。

 現代は神なしで、機構で国家を維持してゆこうとしている。それが進んだ方法であると信じ切っている。ところが太古にあってはほとんどの国は神を中心とした王国であり、プラトンの国家論にあっては民主政治は欠点を抱えたレベルの低い形態として記されている。

 プラトンはエジプトの神官から多くのことを学んだという。

 

 日本にあっても神社にそうした伝承が残っていたが、1回目は蘇我の入鹿が太古の蔵書を燃やし、2度目は戦時中に失われ、東京大空襲で多くが消失してしまっている。

 中国では為政者が政権が変わるたびに歴史書を改ざんしているので契丹古伝のようなものが出ても容易には認められない。

 

 現代思想に染まっていると四代教主補栄二氏のような宗教学者でさえ出口王仁三郎がそんな思想を持っていたなどありえないと思ってしまう。文献を読むときに素直に読めず、異なった解釈をするようになる。出口王仁三郎は当時の思想に合わせて説いたのだと。今そんなことを言えば時代錯誤だと。

 王仁三郎の後継者がこれを言い始めたら、戦前から大本で戦ってきた古参の人たちは納得いかないだろう。戦前は皇道大本で出口王仁三郎と結びついてきたのである。中国大陸に作る国を明智光秀の名を冠して明光国にしょうとさえ提言していたのである。

 話は単純である。太古は世界が日本であり、その頂点に天皇がいた。それが天変地異が起こり、世界が分断され、天皇の一族はアジアを追われて極東に追い詰められた。まだ地続きのころだという。

 さらに島国になって日本が国としてはじめて宣言したのは神武天皇の時であったという。ハツクニシラスというのはそのためである。それまではこの地域は国という区画が明確になっていなかったという。

  神武の東征というのは何らかの原因で九州に居を構えていた天皇家復権の活動を起したと解釈できる。

 また神功皇后三韓征伐、豊臣秀吉の大陸進出、西郷隆盛征韓論なども復権運動と解釈したがゆえに、出口王仁三郎は彼らを高く評価している。

 つまり太古史の記録がなければ、天皇家のやったことは武力による他国侵略、征服に他ならない。しかし、他民族に追いやられ、国民が苦しんでいるとすれば、土地の回復運動であり、人民の奪還運動でもあった。またそのきっかけはヤマタノオロチ族の残党が新羅という国を作り、皇室の滅亡をたくらんで謀略をしかけてきたのがきっかけでもある。

 歴史書の多くは大陸から帰化した人間が編纂し、古事記の序文にさえ陰陽思想が混入されている。都合の悪い歴史はカットされるか歪曲されている。

 日本に潜伏していた半島や大陸の間諜が必死で太古史を奪い、抹殺しようとしたのも、歴史が国の屋台骨ともなることを知っていたからだ。

 バックボーンに本来は我が国の統治権が及んでいたがゆえに中国すなわちchinaの語源は支邦しなであり、日本側が「本邦」といわれていたのではないだろうか。これらの記録はほとんど評価されず、偽書として名高い古文書にしか残っていない。

 葦原はアジアのことであり、素戔嗚の尊は一時肉体をもった人物として、統治はアジア全域に及んでいた。しかし、結局はうまく行かず、それが荒ぶる素戔嗚の物語として残っている。

 アジア全体が日本であると理解されていた時代があったとすれば、それを回復しようとする動きが出てもおかしくはないだろう。

 ただその記録が現在ない。かろうじて契丹古伝がその片鱗を伝えているにすぎない。またスサノオが朝鮮に降臨したことも神話として残っているにすぎない。学者は神も認めなければ神話も作り事と見なす。

 今の時代、このことを明確に表に出して議論することはできない。非難されるだけである。

 だが出口王仁三郎が戦前の軍閥の思想と異なったのは、アジアを武力で支配することを望んでいなかったということである。

 五台山で宗教者会議を開き、宗教が和合することで精神的なルネッサンスを興し、精神的に和合しようとしていた。この機運は今も存在し、おおもとの現在の活動の主軸になっている。

 大本であろうと皇道であろうと「支配」を欲しているのではない。

 人類が世界平和を達成するためにはどういう形態がいいかという話の中で、出口王仁三郎は太古の青写真から世界が一つの王でまとまることを預言した。

 それが天皇陛下であるということは戦後のタブーになってしまったが、平和的な形で、世界が望む形で、それが実現することが筆先にも出ている。どれほど時代錯誤であろうと狂気だといわれようと大本と出口王仁三郎の原点はそこにある。

 ただそれを今の時代公言してしまうと袋叩きにあってしまう。それでは団体は立ち行かず、信仰を失うものもあらわれてしまう。

 そうこうしているうちに、本当のことが分からなくなって枝葉末節のことを議論する者が現れてきた。出口王仁三郎落胤であろうとなかろうとどうでもよいことである。それは本人が言っている。確かに出口王仁三郎が仕組みの中で重要な位置をしめており、それに血統が関わっている可能性はある。しかしそれが天皇に取って代わるという意味ではない。

 霊界物語を読んでいくとよく総説の部分に皇道のことがかかれている。

 大本は日本の皇道を解き明かしたものであり、失われた祭祀や伝承、明らかにされていなかった部分を開示したものであり、天皇制と対立する者でもなければ、出口王仁三郎天皇になろうとしたわけではない。

 ところがそれが王仁三郎が天皇になろうとした、あるいはそれに匹敵するもののように誤解されての大弾圧となった。

 そのため、私がいったころは天皇制をあまり快く思っていない信者もいた。

 大本が正しく、天皇が間違っていたという構図がどこかに刷り込まれると、おおもとの文献を読んでいても皇道大本の意味が入ってこない。

 後継者と目された人の中に、ゆがんだ説を取る人特に四代目教主補が左翼的大本解釈をしてしまったがために、第三次大本事件が起きたというのが私の見立てである。

 信者の話を聞くと誰が悪いとの陰口が多かったが、指導者になるべき人が間違った論説を展開していれば、それは古参の人にとっては理解しがたいものがあるだろう。

 それぞれの会の方と議論したことはあったが、それぞれ思い込み蛾はげしく、お家騒動的な内輪もめの様相話が激しくなり、私はこのような団体に近づくことに嫌悪感を覚えた。

 話にならなかった。

 私は真理を求めてここに来た。そのスタンスからすれば、出口王仁三郎の著作はどれも深く重みがあり、大本神諭には黙示録的な暗示的な真実が含まれているが、教団で接する人に温かみを感じる人は少なく、なにかというと様々な名目で金ばかり要求されてうんざりした。いっそのこと、様々な名目での金の要請をやめてしまってはどうだろう。現代ちまたの税制の型になってしまっている。

 

 

   

 

『国民の大本は皇室である。それを大本を説かねばいかんと思ってやったところが、頭の空気の抜けた智者や学者や新聞記者らが、大本に皇道があり、皇道は大本であるととったものですから、大本事件が起こり検挙された。

  出口王仁三郎全集

 

皇道政治とは天津日継天皇の御神政であって、祭政一致、一大家族制の実現実行である。

 出口王仁三郎著作集 第2巻 p226

 

神のため大君のため国のため  

    つくすわが身に二心あるべき

精霊の世界を救う神の使いを  

    この世の神と見るはうたてき

厳身魂より尊しと狂いたる

    人の言葉を聞くはうたてき 

           31巻余白歌 』

 

騒ぐ信徒に上の言葉をどう思うか聞いてあなたが、なっとくできる答えはかえってきたためしはない。

 

  これを読んで、出口王仁三郎が一時の方便で皇道を説いたと思うなどどうかしている。

 

 つまり出口榮二氏の大本解釈は間違いであり、第三次大本事件の原因は結局栄二氏の側の思想の誤りから生じていたと私は結論っけた。

 むろん教団も細かい解釈で間違いはあったかもしれない。しかし根本的な教義解釈を当時の責任者が間違っていたことは致命的であり、その立場を追われたのは神意のしからしむるところといえよう。

   だが、いくつかの疑問は残る。四代目教主直美様は出口王仁三郎が、出口直の生まれ変わりであり、将来の教主として指名していた。だとすれば、本来の継承者は出口直美ということになる。七代までの道統もしっかりとしている。

 祭の主体と教えの主体である教団が、分離しているという今日の日本の型がそのまま形になってしまった。

だとすれば、出口直美の系統をいつか教団にもどすということであろうか。

 出口日出麿氏はなくなる前の数年間心神喪失状態ではあったが、時々そのときの争いにするかのように短いことばで筆をとっていた。

 いずとみずの会派の人々はこの出口日出麿氏の状態に一切の神秘を感じておられないようであるが、しばしば時期にマッチした言葉が大本の会報誌にとりあげられていた。なかよう(仲良く)。。。そんな内容であったかと思われる。

 別稿

20/6/1
 

 人はなんのために生きているのか。それは現代の学問からは出てこない。私たちは、全世界のアカデミズムを相手にしなければならない。

 目前に広がった世界から真理を読み取らなくてはならない。

 ダーウィンは、進化によって生物を説明した。私たちは偶然生まれ未開の猿のような生き物から進化したと。

しかしそれも仮説にすぎない。

 進化があることはわかるが、文明の全体が、科学も芸術も同じように進化するわけではない。一分は進化し、退化するものもある。

 

 世界の神話は人間が神によって創造されたというものが多い。

 私はまずそれを比喩的に理解した。カミという意思ある存在があり、その意思にしたがって世界が形成された。其の原理を説くものが、宗教であったと。ユダヤの秘教カバラにはそれがあるだろうし、日本の言霊学にも秘されているのかもしれない。

 ロゴスは言霊だ。日本の言語には、その秘密が隠されている。

 この推論はいまでも正しいとおもっている。

      

 カバラの生命の木は興味深い。人間の特性を10セフィロトで説明しようとする。タロットの起源、西洋隠秘学のルーツでもある。

 

 こうした内容が異端扱いされているのは知っている。そして時には邪教として切り捨てられたことも知っている。

 仏教では空海が持ち帰り密教として展開して成功した。すでに中国で権威として確立し、仏教の流派として認められていたからだ。

 しかしいずれにしても細かい点では当時の私にはさっぱりわからなかった。

 出口王仁三郎の書いているところを読むと、密教のルーツは実は太古の古い神道が大陸で仏教化して戻ってきたようなのだ。誰かが太古の伝承を仏教の形に焼き直したのだ。

 法華経は日本では日蓮が簡略化して広めてしまったが、同様に太古の神道のなかで皇室祭祀に関する部分だという説もあった。

 浄土教キリスト教の焼き直しという人もいた。

 これらの宗教が必ずしも空虚な意味のないものではなく、太古神道の教義の断片を伝えていたらしいという事なのだ。

 故に純粋であることは大事なのだが、時代の変遷や民族の歴史を考えれば、頭から否定するより、それぞれの宗教の本来の姿を引き出してやるようにして、民心の向上を図ることが大切なのだ。

 ともあれ私は密教法華経にあまり深入りしなかった。思い出としては空海が身につけたという求聞耳聡明法に関する本を少しかじったが、マントラの回数が多すぎて継続できなかった。それ以上は深入りしなかった。

 そうした私なりの研究を本当に地道な仕事をやりながら続けていた。

 池袋の西武の上の本屋で大本神諭というのに出会うまで。

 その小さな緑色の上下巻の本は、京都の古い方言で書かれたもので、京都生まれの私にとってはなんだかわからない衝撃を受けた。それまでそこまで強い衝撃を受けたことはなかった。言葉が関西弁だったかからなのか。内容は立て替え立て直しの預言で、それらは結局第二次世界大戦で終わったものと思っていた。だから大本は過去のものだと思っていた。だからこそそこから派生した宗教が巷ではたくさんはやっていた。

当時新興宗教にはあちこち頭を突っ込んで、教団というものはこういうものか、勧誘というものはこういうものかと体験していた。だから容易なことで心を持っていかれることはなかった。これはとおもっていろいろ読み始めて出口王仁三郎の伝記を読むにつけ、ああ、あの合気道植芝盛平が師と仰いだ宗教家かと合点がいった。

 

この宗教家については合気道の本で少し聞いていたし、中学くらいに読んでいた成長の家の総裁谷口雅治の師でもあったのでなんとなく分かった。成長の家の宗教観というのは大本から発している。

 

したがって私の入信初期というのは、皇道うんぬんよりも、世界宗教の根っこは一つだというような考え方から入っていった。仏教をやりキリスト教をかじり、新興宗教関連であちこちで入りしていた自分としてはそこに魅かれた。

 

 私の解釈は直観的なもので、立て替え立て直しはこれからくると考えるものだった。実際出口王仁三郎もそのように預言していたらしい。しかしながら大本の本旨はそこにあるのではなく、皇道つまり、天皇中心の世界観であり、途方もない時間にわたる人類文明の歴史だった。日本書紀天孫降臨から百七十数万年という話が出てくるが、それを肯定するもので、偽書といわれる竹内文書くらいしか比すべきものがなかった。古事記日本書紀においてはなぜか神武天皇以前72代ほどが抜けている。

 

はじめはこの荒唐無稽の話をうのみにはできなかった。実際、大本でもリーダー格の人がこんな年代を信じられなかったらしい。

 

また四代目の教主補といわれた出口栄二氏は大本の皇道主義を当時の時代のしからしむところとして方便として理解しようとした。四代教主補は宗教学者であり、常識の枠を出ることができなかった。それもあってか大本から教主補の坐を追われ、地位保全の訴えなどの訴訟までおこした。

 

ちょうどこのさなか私はこの時の論争や論述を読みまた迷いの渦中に沈んだ。

 

教団も栄二派も皇道から離れてしまっていた。祭祀は形だけは保たれていた。

と少なくとも私は思いこんでいた。

 

大本は複雑な宗教で、いいことばかりが起きるわけではない。型として悪いことも起きる。大本で起きることは日本でも、世界でも起きるといわれている。

 

そう考えると教主補が左翼化(本人は自覚なぬ)したことは、日本国内では政治が左翼化する可能性を示している。左翼と保守派の対立はそのまま教団と教主補の対立を映しだしているようであった。

結局皇道はそのまま置き去りになっている。

 

四代目の教主は出口王仁三郎が、後継者としていたし、出口栄二は同じく出口王仁三郎が、探しだしてきて、夫婦となって大本を継いでゆくはずだった。ところが栄二氏が、学の視点にはまりこみ、大本を教団を狭く解釈して地方の民衆宗教として理解してしまった。

 

出口王仁三郎はこれを予測できなかったのであろうか。

 

栄二氏は教団をおわれ、地位保全の訴えを起こし、裁判中教義について話すことはできなくなってしまった。これは神意のしからしむところであったと思う。間違った大本解釈は数多の信者を誤らせる。

 

訴えを起こした時にはまだ三代目教主もおり、出口日出麿も存命だった。娘婿である栄二は嫁の母親と対立したことにる。

 

外部の人間からみるとお家争いである。この間わたしは、真面目な信徒とは言えず、どちらにも顔をだし、時には教団がわ時には栄二派に傾いた。

 

血筋は直美教主が正当である。しかし栄二氏の教義は明らかに間違っている。

 

この間わたしは合気道の本流から別れた武道家や、かつて大本と提携していた道院の笹目秀和という仙人のような人ともあった。笹目氏は戦時中もと徳王のサポートをしていたらしい。鶴にのって中国の仙人にあったなどという突拍子もない逸話をもっていた。にわかに信じがたいが、とりあえず信じてみる。

 

私があった時にはかなり高齢で、細かい会話がなりたたなかった。三代目は道院よりも座禅をこのんだらしく、笹目氏との交流は途絶えていた。合気道植芝盛平とはそりがあわなかったらしい。

 

それぞれの長をまとめていたのは出口王仁三郎だった。

 

道院の座法は仏教の座法よりも楽であるばかりでなく、奥深い。その説明は道教と似ている部分もあるが、あまり既存のものと比較しないほうがいい。既存の知識はおそらく太古の知識の残滓ノコリカスを人があらこれ考えてつくりあげたもので、まちがっているものも多い。

 

道院は太古の座法の直接開示であるから、なにも知らずに教わったほうがよい。